新旧スターに影響を与えた“伝説のバンド”ビーチ・ボーイズの壮大な歴史…確執を乗り越えた“家族の絆”に乾杯
“伝説のバンド”ビーチ・ボーイズの新ドキュメンタリー作品「ビーチ・ボーイズ:ポップ・ミュージック・レボリューション」が、5月24日に配信された。ビーチ・ボーイズは、1961年に兄弟や親族、友人らと共にアメリカ・カリフォルニア州ホーソーンで結成されたバンド。今作では家族で結成されたつつましい始まりからバンドの壮大な歴史を振り返るとともに、初公開の記録映像やバンドメンバーと音楽業界の大物たちの新たなインタビューを収録。何世代にもわたってファンを引きつけてやまない彼らの魅力を存分に堪能できる作品となっている。そこで今回は、音楽をはじめ幅広いエンタメに精通するフリージャーナリスト・原田和典氏が、当ドキュメンタリー、そしてビーチ・ボーイズの魅力を独自の視点で解説する。(以下、ネタバレがあります) 【写真】若い!今も色あせない魅力を放つビーチ・ボーイズの過去 ■後世に名を残すビーチ・ボーイズの音楽性 光が強くなればなるほど、影もまた限りなく濃くなってゆく。はじけるような明るさの裏に、胸をえぐる切なさがある。太陽が輝く砂浜のパーティーが、ちょっとしたタイミングで孤独と絶望を吐露する場に変わる。それがビーチ・ボーイズの音楽だ。 去る2月、メンバーのブライアン・ウィルソンが保佐人を選任したとのニュースが流れた。保佐人とは、自分で物事の判断ができなくなった人の法律行為の一部につき、同意権・取消権・代理権を与えられた人物のこと。これまでの彼のライフスタイルを思えば、現在も生きているという事実が奇跡に近いということが実感できるのだが、グループの大半の楽曲を作曲し、超絶ロングセラーアルバム『ペット・サウンズ』の実権を握っていた類まれな鬼才の身に新たな奇跡が起こることを望まずにはいられない。 そんなところに飛び込んできたのが、ビーチ・ボーイズのドキュメンタリー作品「ビーチ・ボーイズ:ポップ・ミュージック・レボリューション」の話題である。「インディ・ジョーンズ」シリーズや「シックス・センス」などのヒット作をプロデュースしたフランク・マーシャルと、ブルース・スプリングスティーンのライブ作品などで2度のエミー賞に輝くトム・ジムニーが共同で監督を担当しているという話を聞けば、これまでの同グループに関するドキュメンタリーものとは一味も二味も異なる作品になるだろうとの予測は簡単にできたが、早速配信された作品を見てみると、テンポは歯切れよく進み、レア映像も満載。 コメントも実に充実していて、生存メンバー、亡くなったメンバー、共演経験のあるミュージシャン(名ドラマーのハル・ブレインも!)の談話はもちろんのこと、ワンリパブリックのライアン・テダーや、カリスマ的な支持を集める歌手・俳優のジャネール・モネイといった現役スターたちも“ビーチ・ボーイズ愛”を存分に語っている。 また、帽子にサングラスの人物はドン・ウォズと言って、自身の音楽活動と並行しながらブライアン・ウィルソン、ボブ・ディラン、ローリング・ストーンズなどの作品プロデュースを行い、現在は世界最高峰のジャズ・レコード会社“ブルーノート”の社長も務めるという、マルチそのものの才能の持ち主。ブラック・ミュージックのメッカでもある自動車都市・デトロイトで生まれ育ったドンが、“夏、太陽、サーフィン”で売り出したカリフォルニア産ロック~ポップス・グループについてどう語っているのかも、大いに興味をそそるところだろう。 「ビーチ・ボーイズ:ポップ・ミュージック・レボリューション」に挿入されている楽曲を耳にすれば「あ、この曲、聴いたことがある」とか「このメロディー、ビーチ・ボーイズの歌だったのか!」と思うことも多々あるはず。「歌いながら演奏する」グループとしては、ザ・ビートルズより先に成功を収めている。以下、ビーチ・ボーイズの軌跡をざっと記しておく。 ■ビーチ・ボーイズの軌跡 1961年にウィルソン兄弟(ブライアン、デニス、カール)、いとこのマイク・ラブ、ブライアンのハイスクール時代の友人であるアル・ジャーディンという5人のオリジナルメンバーで結成。もともとのバンド名は、ペンデルトーンズ。ビーチ・ボーイズというグループ名は本人たちの知らないところでつけられた。兄弟の父親でマネジャーのマリー・ウィルソンの尽力もあって、1962年にキャピトル・レコードからデビュー。一躍人気グループとなる。 キャピトル・レコードといえば1963年に「上を向いて歩こう(Sukiyaki)」(坂本九)を全米シングル・チャートのNo.1に送り込み、1964年から英国の4人組バンド、ザ・ビートルズの米国盤リリースを始めた。つまり、ビーチ・ボーイズとビートルズという、当時を代表するアイドルバンドの作品が、同じレコード会社から発売されていたわけである。その状況で双方刺激を受けないわけがない。 1964年、ツアーの移動中にブライアンが神経衰弱に。残ったメンバーは代役を加えてコンサート活動を行い、ブライアンはツアーに同行せず、楽曲制作やスタジオ・ワークに専念した。ライブバンドとしてのビーチ・ボーイズ(エンターテイナーであるマイク主導)と、レコーディングの場でますます音楽性を深めてゆくビーチ・ボーイズ(ブライアン主導)の共存だ。 1966年1月には来日公演も。1963~64年頃、米軍基地で慰問演唱したこともあるようだが、一般公演はこのときが初めて。当ドキュメンタリーに登場するカラー映像の「日本の風景」は、1966年時のものか。ちなみにビートルズの来日は同年6~7月。帰国後、“ライブバンド”ビーチ・ボーイズのメンバーはブライアンと合流、すでにスタジオ・ミュージシャンが録音していたオケ(伴奏)にコーラスなどを追加収録する。これがかの有名な『ペット・サウンズ』だ。ブライアンがビートルズの『ラバー・ソウル』(米国盤)からインスピレーションを受けて制作したという、非常に内省的な作品だ。 1967年、ビートルズが『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を発表。この作品と『ペット・サウンズ』との関係性を解き明かしていくシーンは、当ドキュメンタリーの大きな見ものといっていいだろう。 ヘヴィードラッグも体験し、ますます自己の世界に閉じこもっていくブライアン。変化していく時代の中で音楽性を変化させ、レコードセールスは下り坂になるも、それでも傑作を生みだしていく彼以外のメンバーたち。 いわゆるオールディーズ楽曲がふんだんに登場する映画「アメリカン・グラフィティ」が話題を集める中、活動初期のヒット曲を中心とした編集盤『終わりなき夏』が全米チャートのNo.1に(1974年)。「明朗快活な、昔ながらのビーチ・ボーイズ・サウンド」を求めるファンの多さがあらためて証明された。 ■映画挿入歌「ココモ」が全米1位を獲得! 1988年にはトム・クルーズ主演の映画「カクテル」の挿入歌「ココモ」が全米1位を獲得。別行動をとっていたブライアンもソロアルバム『ブライアン・ウィルソン』を発表。 そして2023年、1962年発表の初アルバム『サーフィン・サファリ』から約60年を経て、ジャケット写真が撮影されたハワイ、“パラダイス・コーブ”に存命メンバーが再集合。確執を乗り越えて時間を共にする彼らの姿(特にマイクとブライアン)には泣けた。 あともう一つ、当ドキュメンタリーの中でなんとも異様な存在感を放っているのが、先にも少し触れたブライアンらの父マリー・ウィルソンだ。ソングライターとしての経歴も持つ彼は、ビーチ・ボーイズの活動初期にマネジャーを務め、息子たちの成功に尽力した。が、グループが売れるほど支配欲が増し、“嫉妬の鬼”と化していく。自分が音楽家として収められなかった成功を、息子たちがものにしていくことにむかついたのか。 揚げ句の果てにビーチ・ボーイズの著作権を信じられないほど安い値段で売り飛ばし、そのためメンバーは長年にわたって苦労を強いられることになる。また、ドキュメンタリーでは触れられていないけれど、“サンレイズ”という5人組グループをプロデュースして、ビーチ・ボーイズの人気を蹴落とそうとした形跡もある。なんという暴君なのだと思わざるをえないが、それでも、父にとっては愛すべき息子たちであり、息子たちにとっては大きな父であるという点が0パーセントになることはなかった。それがありありと伝わるのも、「ビーチ・ボーイズ:ポップ・ミュージック・レボリューション」の深いところだ。 「ビーチ・ボーイズ:ポップ・ミュージック・レボリューション」は、ディズニープラスで独占配信中。 ◆文=原田和典