「ケア」のドラマとして『虎に翼』を観る。吉田恵里香さん×小川公代さん特別対談
「ケアすること」をとらえなおす
小川:そろそろ質疑応答の時間に移りたいと思います。 参加者:寅子は家父長制を内面化しているというお話がありましたが、寅子は家父長制に抵抗する姿勢を見せる存在だと捉えていたので、ギャップがありました。また、小川さん自身もかつて家父長制を内面化していたというお話もありました。ここでの「家父長制を内面化している」というのはどういう意味なのか、もう少し詳しく教えていただけないでしょうか。 吉田:無意識のうちに、大人になることを、結婚して、子どもを持って、家庭を作って……と人生ゲームのようにクリアしていくことだと捉えていて、「私はミスフィットだけれど世間の当たり前はこうでしょう」と決めつけているという意味かなと思いました。 小川:寅子が仕事で忙しくて、娘の優未の世話を花江がしてくれていた時期は、完全に寅子が夫の立場に立っていて、家のことは花江がやるものだと考えている感じがありましたよね。 吉田:性別ではなくて、どちらの方が忙しいとか、どちらの方が稼いでいるかで、立場が決まってしまうことを書きたいと思っていました。 小川:あのシーンは目から鱗でした。自分が稼いでいると偉くなったような気持ちになってしまう。資本主義社会の刷り込みですよね。でも、花江みたいに手を動かしてケアしている人たちも偉いと思います。そういう人に価値を見出そうとしたのが倫理学者で心理学者のキャロル・ギリガンです。個が自立して稼ぐことに価値が置かれてきた近代社会において、家で行われるケア実践、そして母と娘がしっかり関係性を築いて分離しないことには意味があるのだと説いた。彼女の提唱した「ケアの倫理」はインパクトがあり過ぎて、ものすごいバックラッシュを受けました。 私が『虎に翼』で特に素晴らしいと思ったのが、新潟編です。家父長制を内面化してしまい、批判を浴びて反省した寅子が心機一転、娘と分離するのではなく関係を結び直すことを選びました。あれはギリガンが言う、互いの判断と倫理観で依存し合う関係をつくっていくのが「ケアの倫理」である、という考えにつながるのではと思いました。それには妥協と対話だと、まさに寅子は家庭でそれを実践していますよね。 吉田:娘の表面的な幸せを考えれば花江に預けるべきだと思いますが、かいがいしくケアすることが親子関係にとってベストなのではなく、親子で対話して、サボるところはサボり、話すところは話すというめりはりをつけることが、二人の溝を埋めることにつながるのかなと思って書きました。 小川:ケアの倫理は「個」を主張しないということではないんですよね。セルフケアということでいうと、実は「個」の尊厳をケアすることでもある。吉田さんの小説『にじゅうよんのひとみ』は、まさにセルフケアの物語でした。二十四歳の誕生日を迎えた「ひとみ」が、もうひとりの「ミスフィット」の「ヒトミ」と出会う物語です。「ヒトミ」は赤ん坊として生まれ、一時間に一歳ずつ年を取っていく。「ヒトミ」は、日頃から思ったことが言えない、家父長制的な社会に声を奪われた「ひとみ」の代わりに声を上げます。つまり「ひとみ」の代わりに「ヒトミ」がセルフケアをしてあげるんです。『虎に翼』は、ついつい「スンッ」としてしまうひらがなの「ひとみ」のような女性たちが、勇敢にも「はて?」といえるカタカナの「ヒトミ」に変わっていくために書かれた物語なのかもと思ったりします。 吉田:他者とはいろいろな関係性があるので、極論すると、自分を応援できる人は自分しかいないんですよね。純粋な意味で自分を応援できるのは自分だけだと思っているので、自分で自分を救うしかない。でも、そこに行き着くためには、やっぱり他者との対話が必要なんです。 小川:私は『翔ぶ女たち』という本の中で、作家の野上弥生子について書きました。夏目漱石門下で数少ない女性だった野上弥生子は三淵さんよりだいぶ年上ですが、子どもを育てながら仕事をしました。家父長的なものを上からどんどん押しつけられてくる中、諦めなかった人です。 吉田:生まれた年はだいぶ違うのに、野上さんの方が三淵さんより少し後まで生きたんですよね。『翔ぶ女たち』の中で、野上さんは長く生きたので女学校時代の学びを継続することができた、とありました。何歳になっても新しい分野に果敢に挑戦し、生涯現役で書き続けたのはすごいなと思います。 小川:本日はどうもありがとうございました。お話しできて大変光栄でした。 吉田:とても楽しかったです、皆さんもありがとうございました。 (2024年9月5日、本屋B&Bにて。構成/羽佐田瑶子)
吉田 恵里香、小川 公代