『ベルサイユのばら』『イノサンRouge』ともにフランス革命前夜を描きながら圧倒される、正反対の「様式美」
■ 『イノサン』にもオスカルはいる マリー・アントワネットをはじめフェルゼン、デュ・バリー夫人、ルイ16世、そしてアンドレまで登場する。ではオスカルは? オスカルは出てこない。が、代わりにシャルル=アンリ・サンソンとその妹であるマリー=ジョセフ・サンソン(兄妹)が登場する。彼らはフランス王国に実在した「処刑人一族」である。 死刑執行という誰もやりたがらない仕事を請け負うアンタッチャブルな存在で、刑罰として言語に尽くし難い苦痛をもたらす首切り役人だ。一刀のもとに斬首する技能を持ち、人間の急所を知り尽くした闇のプロフェッショナルであるが、それ故に民衆から蛇蝎の如く忌み嫌われ、目を合わせることさえ不浄とされた存在である。特権階級として貴族並みの高給が支払われたものの、彼らの社会的地位は完全に疎外されていた。 『イノサン』は二部構成となっており、第一部では兄シャルルが扱われる。実在した人物で、2700人余りを処刑したという。しかし彼は死刑執行人であるにも拘らず、死刑廃止を訴えた「善人」である。そして彼は王党派、つまり王室に限りない忠誠を誓っていた。その手で主君たるルイ16世の首を断頭台にかけることになることも知らずに。それだけでなく、マリー・アントワネットもロベスピエールもサン=ジュストも元カノだったデュ・バリー夫人も手にかけている。 シャルルはせめてできるだけ痛みを感じさせないで処刑しようと、可能な限り策を講じた。彼自身は痛みを感じることで自らの「無垢」を証明しようと自律している人間である。つまり、自らの穢れを痛みで償うマゾヒストなのだ。 そんなシャルルとは対照的なのが第二部『イノサンRouge』の主人公、マリー=ジョセフ・サンソンである。幼くして倒錯しきった嗜好を持ち合わせたサンソン家きっての跳ねっ返り。女だてらに死刑執行人として生きることを強く望む、生粋のサディストである。一応実在してはいるが、キャラクターは完全な創作だ。お察しの通り、彼女が『イノサン』におけるオスカルなのである。 本家同様、ちゃんとマリーも自分が女であることを呪ったり、葛藤したり、女も男も両刀使いで誑(たぶら)かしたりもする。だがそのやりかたはきわめてダーティーだ。処刑に悦楽を見出し、時にわざと惨たらしい処刑で断罪する。人を人とも思わぬ傲岸不遜な態度で周囲の顰蹙を買うが、一向に気にする素振りも見せない。また、侍従の名は「アンドレ」で、本業も宮廷衛官である。これがこのオスカルでなく誰だというのか。 この兄妹の最大の違いは「罪悪感」の有無であろう。兄シャルルは必要以上に深く罪悪感を感じ、妹マリーはどれだけ酷いことをしても罪悪感を感じない。人を殺すことの罪悪感をシャルルは償うことで「無垢」であろうとする。暴論かもしれないが、マリーは全く意に介さない、つまり天衣無縫なところが「無垢」であるとも捉えられる。 人間に与えられた唯一絶対の「無垢」とは、いずれは誰でもこの世から何ひとつ持っていけずに立ち去るという、きわめて平等なさだめのなかにあるのかもしれない。それは生まれ落ちた瞬間から穢され、傷つき、歪みつづけていくけれども、再び死の救済によってまた与えられるものなのではないだろうか。 『イノサンRouge』が『ベルサイユのばら』のパスティーシュ(模倣・パロディの一種)であることは間違いない。あらゆるシーンにおいてよく分かるようにできている。しかしこれはパクリではない。原典に強い敬意を持った上での挑戦なのである。 『イノサン』に出会えなければ、わたしは古典的名作『ベルばら』を読まなかっただろう。そしてその様式美の美しさに、その神がかり的な筆力に深く感動することもなかっただろう。名作というものは須くアップデートされていくものなのである。時代の手垢にまみれたまま消えていく作品は多い。しかし名作が残す遺伝子は、時代にあわせてかたちを変えて繁栄するものなのである。 (編集協力:春燈社 小西眞由美)
石川 展光