家臣・松永弾正に裏切られた悲運な武将・三好長慶は実は信長よりも先に天下を取った「最初の天下人」だった【イメチェン!シン・戦国武将像】
“三好長慶”と聞いて、パッとイメージが浮かぶのは「歴史好き」な方くらいだろう。彼は実は一時期、将軍を上回るほどの権力をもち、戦国時代に名を馳せた武将であったが、その印象は薄い。ここでは悲運な武将というイメージをもたれる三好長慶の実像に迫る。 戦国時代の後期に、京・大坂など畿内に出現した阿波・三好一族の「三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)」の印象はかなり悪い。その後に出現した織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が大きな存在として(事実、後に天下人になるのだが)歴史に残ったから、なおのこと三好三人衆は矮小化されてしまっている。この三人衆は、家臣筋だった松永弾正久秀(まつながだんじょうひさひで)とともに、13代足利将軍・義輝(よしてる)の暗殺や東大寺の大仏殿放火、15代将軍・義昭(よしあき)への急襲など歴史上「悪業」とされることをやり過ぎた。 それでいながら、その最期は3人とも泡沫(水に浮くはかない泡)のように消え失せてしまったから、歴史の記憶には残らないことになった。その「泡沫」の中に位置付けられてしまったから「最初の天下人」とされる三好長慶(みよしながよし)も歴史上さほどには評価されることのない存在になっていた。 しかし、最近になって長慶の存在が、これまでよりもずっと大きな存在としてクローズアップされるようになった。ある意味では、信長よりも評価が高くなっている。それは、信長が成し遂げようとした「天下人」の位置に長慶は座っていたからである。 長慶が天下人として振る舞ったのは、天文年間の後半から永禄年間の前半までの約15年間というから、信長が足利義昭を奉じて京都に入ってから本能寺で横死を遂げるまでの年数と同じほどの「天下人」であった(ただし、長慶・信長などの時代の天下人とは、全国を制覇することではなく、朝廷のある畿内一体を勢力下に置くことをいった)。 長慶は、阿波(徳島県)の豪族・三好元長(もとなが)の嫡男として生まれている。その父は、仕えていた幕府の権力者・細川晴元(ほそかわはるもと)によって殺されるが、長慶は生き延びて晴元に出仕するが、実力を発揮してついには晴元さえしのぐ存在になる。さらに将軍・義輝を屈服させて幕府の実権をも掌握した。その結果、山城・大和・河内・和泉・摂津のいわゆる「五畿内」に加えて、丹波の大半と播磨東部、さらには本拠の阿波を中心に讃岐・淡路・伊予東部までに勢力を張った。 朝廷からは、従四位下・修理太夫に任命され、御相伴衆に列した。また塗輿や桐紋(天皇家の替紋)の使用も正親町天皇から許可されるなど、絶頂期を迎えた。 この長慶の祐筆(秘書官・文書係)からのし上がった松永久秀が徐々に台頭してきた。久秀は、宣教師ルイス・フロイスの『日本史』にも「久秀は三好の家臣であるが、長慶から裁判権と統治権を奪い、天下最高の支配権を握った」と評されるほどの存在になっていた。 永禄4年(1561)ころに絶頂期を迎えた長慶政権は、この後徐々に力を弱め、勇将として知られた弟・三好義賢(よしかた)や十河一存(そごうかずまさ)が戦死や病死し、嫡男・義興(よしおき)までが病死した。病気がちであった長慶は、こうした身内の不幸によってすっかり落胆し、実意の中で死を迎えた。43歳で病死した。その死後に実権は久秀に奪われてしまう。戦国時代最初の天下人・三好長慶の存在と実績は、こうして歴史の中からも消え去っていたのだった。しかし今後はイメージチェンジを果たし、さらに大きな存在として戦国史に登場する武将であろう。
江宮 隆之