ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (12) 外山脩
アンデスの山越えは、眼下に数千メートルの谷底を見ながら、細い道を辿るという難所も多く、ら馬も怯えるほどで、心身ともに凍えさせた。水野の回顧談には「しまった、取返しのつかぬことをしてしまった!と、悔いと恐怖に襲われ続けた」とある。南樹も同じであったろう。 やっと最後の難所を越えた後、小さなホテルで二人は四、五日動けなくなってしまった。腰を抜かしたのだ。 水野の性格上の欠点が引き起こした失敗だった。 二人がアルゼンチンを経て、大西洋を船で北上、リオの港に着いたのは一九〇六年三月の末であった。 上陸後、二人はペトロポリスの日本公使館を訪ね、杉村公使に会った。 杉村は、自分の報告書に対する反応が、早速こういう形で現れたことに満足であった。すぐ通訳官の三浦荒次郎を二人に付き添わせ、サンパウロ州政府を訪問させることにした。 三浦通訳官。この人物は数年前、孫文の支那革命を助けようと働いたことがあり、ただの外交官ではなかった。年齢は水野よりは若かったが、南樹よりは上だった。 四月上旬、三人はサンパウロ州政府の農務局を訪れた。交渉相手は長官カルロス・ボテーリョとその部下たちである。 彼らは、水野たちが持ち込んだ話に、関心を寄せた。さらに三人のために、当時の代表的カフェー生産地リベイロン・プレットのファゼンダを、幾つか視察できるように計らった。三人は出発した。 その後、農務局で検討してみると、日本移民を受け入れるためには、州法を改正する必要があることが判った。それと彼らは、この珍しい東洋人に関する知識が不足していた。そこで、すでに日本移民が入っているハワイやペルーでの成績を調査することになった。 時間がかかりそうであった。ファゼンダ視察から帰って、それを知った水野は一旦ペトロポリスヘ戻ることにした。その意志を農務長官に伝える時、 「日本人がどんなものか、ためしに使ってみてくれ」 と南樹をさし出した。 日本からの移民が実現すれば、その挺進役を果たすことになる。南樹は先日訪れたファゼンダの一つへ行き、労務者になった。 当時、リベイロン・プレットには、歴史に名を残す大農場主が幾人もいた。その代表格がフランシスコ・シュミットというドイツ人であった。一八五〇年の生まれで、八歳の時に父と共にこの国に渡り、長じて一介の労務者から身を起こし、数十カ所のファゼンダを所有するまでに、のし上がった。その広さは合計七〇万ヘクタール、カフェーの樹数は千六百万本という凄さであった。 南樹は「運命の女神が微笑めば、第二のシュミットも夢ではない」と、かつては奴隷の仕事であった重労働に挑戦した。 よし五歩に 十歩に喘ぎ 苦しむも 大地の限り 打たむこの鍬 その折の作である。 ファゼンダで与えられた仕事は、鍬を使っての耕作ではなく、炎天下カフェーの実を詰めた袋を担いで運ぶという大層きつい労働であった。が、覚悟していたことであり、なんとか、こなした。予想外の苦しみだったのが、空腹だった。食事は職員宅で出してくれたが、そこのカミさんの視線が気になって、思うように「お代わり」をすることができない。間食を買うこともできなかった。 給金は、何故か小遣い銭ていどであった。南樹はファゼンダでの体験や見聞を、ペトロポリスの水野に手紙で次々と報告しており、そのための諸雑費に充てると、殆ど残らなかった。 水野は南樹をさし出す際、労働条件の取決めを怠っていた。そういう細い気配りが出来ないたちであった。 その頃、ペトロポリスで変事が起きていた。杉村公使が急死したのである。五月下旬のことである。脳溢血であった。サンパウロ州政府の方も、まだ時間がかかりそうだった。水野は一旦、帰国することにした。(つづく)