下重暁子 藤原道長からいじめ抜かれた定子を清少納言は懸命に守ったが…紫式部が日記に<清少納言の悪口>を書き連ねた理由を考える
2024年のNHK大河ドラマ『光る君へ』で注目を集める平安時代。主人公の紫式部のライバルであり、同時代に才能を発揮した作家、清少納言はどんな女性だったのでしょうか。「私は紫式部より清少納言のほうが断然好き」と公言してはばからない作家、下重暁子氏が、「枕草子」の魅力をわかりやすく解説します。縮こまらず、何事も面白がりながら、しかし一人の個として意見を持つ。清少納言の人間的魅力とその生き方は、現代の私たちに多くのことを教えてくれます。 【書影】下重暁子が迫る、清少納言の才能と魅力『ひとりになったら、ひとりにふさわしく 私の清少納言考』 * * * * * * * ◆最後の一人になっても離れないと誓った、定子への想い 清少納言が仕えた中宮・定子との絆がさらに深くなったのは、皮肉にも、道長からのいじめともとれる行動が如実になったことがきっかけでもあった。 道長は娘彰子を十二歳とまだ少女のうちに入内させ、天皇にはいくら定子を愛しているといっても、権力を握る道長に反抗する力はなく、ここに、一条天皇をめぐって二人の后が並立するという珍事が実現したのである。 定子を皇后と呼び、彰子は中宮になる。これを見て、清少納言の定子への思いはますますつのる。 「枕草子」(第二百二十三段)にも書かれているように、最後の一人になっても決して定子のそばを離れまいと決心して、四ヵ月の休みの後定子の元へもどる。 それを定子は、とがめるでもなく、ユーモアを交えて迎え、ほっとした清少納言もそれまでと同様、いやそれ以上に懸命に宮仕えにはげんだ。もはや定子を守ることだけがつとめであり、道長方からの様々ないじめや政変を書き残すことが使命となったのである。 ところが、うち続く身のまわりの悲劇にたえかね、一条天皇の愛情だけを頼りに、一年ごとにたて続けに子供をみごもった肉体的な負担も追い討ちをかけたのか、定子は二人目の皇女の生誕を待つように亡くなってしまった。 二十四歳という若さであった。
◆定子との別れ、心の支えが失われた後の清少納言は…… 清少納言の心の支えは完全に失われてしまった。 厳しい環境の中で定子への思いだけで、宮仕えを続けていた清少納言の意地もくじかれてしまった。 すでに三十五歳になっていた。それからあとの清少納言がどう過ごしたかは、よく知られてはいない。 定子の遺児たちの下に仕えることも考えられたが、それも中宮となった彰子が面倒を見ることになってはもはや居場所はない。父の残した家にもどって、「枕草子」の完成まで書き続けることに心血をそそいだ。 すでに清少納言が最初の夫・則光の後結婚した藤原棟世との間にできた子供達も大きくなり、下の娘小馬命婦(こまのみょうぶ)も十歳になり一緒に住んだと考えられる。 一方夫である棟世は、六十四歳という当時としては老齢になり、宮仕えに出た妻に今さら文句を言うでもなく、迎え入れたのであろう。 そのあたりは、諸説あって、清少納言の晩年は謎になっているが「枕草子」だけは清少納言の思いを乗せたまま確実に残されたのである。
【関連記事】
- 下重暁子「ドラマの主役が紫式部だろうと私は清少納言派。彼女ほど男達に鋭い刃をつきつけた女性が当時ほかにいただろうか」
- 本郷和人『光る君へ』藤原兼家のクーデター計画で出家させられた花山天皇。その後は修行僧のような厳しい毎日を送ることになったかというと…
- 本郷和人『光る君へ』本郷奏多さん演じる花山天皇に入内した井上咲楽さん演じるよし子は、そのまま「夜御殿」で…そもそも「入内」とは何か
- 『光る君へ』藤原だらけのドラマでまひろが「藤原*子」と名乗っていない理由とは…<平安時代の女性の名前の謎>を日本史学者が整理
- 『光る君へ』未登場「紫式部の姉」とはどんな人物だったのか?紫式部の婚期を遅らせたかもしれない<ちょっと怪しい関係>について