下重暁子 藤原道長からいじめ抜かれた定子を清少納言は懸命に守ったが…紫式部が日記に<清少納言の悪口>を書き連ねた理由を考える
◆見事な政治家、道長と紫式部 さて彰子の教育係として道長から抜擢された一方の才女紫式部はどうしたか、清少納言との違いをながめてみよう。 この世の春となった彰子の元にあって彼女の才もまた大きく開花する。 道長の歌、「この世をばわが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」。 道長という人は権謀術数を駆使して権力を手中に収めた後、相手方をめった打ちにして、再び立ち上がる力をなくしたのを見て、以後温和に扱うあたり、実に見事な政治家である。 恨みを恨みのまま残すのではなく、許す方向に持って行き、太平をもたらすという老獪さを持ち合わせていた。 しかし、彼が、彰子のためにあつめた女性達はそうではなかった。恋多き女として知られる和泉式部などは、定子方の清少納言の才をスカッと認めていたが、紫式部はそうではなかった。 「枕草子」の中に書かれた紫式部の夫藤原宣孝(のぶたか)や従兄藤原信経(さねつね)についての描写を決して許すことができなかった。 清少納言の直情的にものを言うその言葉によほど傷ついたのだろう。 清少納言の方にも自分より若くして力を発揮した閨秀(けいしゅう)作家・紫式部に思う所あったのか。しかし、それほど深い悪意があったとは思われない。
◆作品の精巧さと同様に、恨みも深かった というのは清少納言という人の性情は、ねちこく誰かに妬みを持つという所が、その言動からして感じにくく、むしろ紫式部が必要以上に清少納言を意識した結果だと思う。 もう一つ紫式部の氏・素性は辿ることができるほどしっかりしたものだったために、位の低い清少納言から言われたことを許せなかったこともあろう。この時代いくら女自身に才があろうとも、男の係累が物を言ったのである。 『清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち、真名書き散らして侍るほどもよく見れば、まだいと足らぬこと多かり。かく、人に異ならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行末うたてのみ侍れば』(「紫式部日記」) 紫式部の恨みは激しく、決して許すことはない。現在の清少納言への悪口、さらに清少納言の将来にまで思いを馳せる。 このことから見ても紫式部という人はその作品「源氏物語」の精巧さから見ても人に心の内を見せることがなく、優秀なだけに、かえって煙たがられることもあったのではないか。 まわりの女官達からは尊敬されても近づきにくい所があり、性格的にも清少納言とは違って隙のない人物のような気がするのである。 ※本稿は『ひとりになったら、ひとりにふさわしく 私の清少納言考』(草思社)の一部を再編集したものです。
下重暁子
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