米軍による本土初空襲から74年 生徒犠牲の早稲田中で追悼式
1942年4月18日。旧日本軍による真珠湾攻撃を皮切りとした太平洋戦争開戦後、米軍爆撃機による初めての日本本土空襲が行われた。指揮した米軍幹部の名前から「ドゥーリトル空襲」と呼ばれるこの作戦では、東京や神奈川、兵庫などが標的とされ、多くの死傷者が出たとされる。このうち、学校の敷地内で生徒1人が命を落とした私立早稲田中学校・高等学校(東京都新宿区)で18日朝、生徒代表が慰霊碑に花を手向ける追悼式が開かれた。
副読本で授業、焼夷弾も保管
空襲で犠牲となったのは当時、旧制中学4年だった小島茂さん。米軍のB-25爆撃機が投下した焼夷弾の破片が肩に直撃したという。同校で社会科を教える靭矢(うつぼや)嘉史教諭によると、当日は土曜日で「小島さんは午前の授業を受けた後、屋外で休憩していたところで爆撃の被害にあったのではないか」と話す。 歴史を語り継ぐべく、同校ではドゥーリトル空襲を伝える副読本を独自に作製。全生徒に対し、入学後まもなく授業の中で教えている。さらに、同校には当時の空襲で学校を襲った焼夷弾の一部が保管されている。普段は鍵のかかった資料室にしまわれているが、ここ数年で史料の整理が進み、昨秋には文化祭で初めて一般来訪者にも公開された。
現役生徒「風化させない」
83年、小島さんの同級生らによって敷地内に慰霊碑が建立された。今では毎年4月18日に現役生徒代表らが花を手向けている。 今年も高校2年2人と中学3年1人の計3人が献花後に慰霊碑に向かって手を合わせた。生徒らは「歴史を風化させないためにもこういう行事は大切」と説明。一方、生徒間で空襲について語ったり、考えたりする機会はないと言い、「入学直後だけでなく、振り返るチャンスがあればいいのでは」とも話した。