【ざんねん古代史】理想どおりに進まなかった「平安京の建設」 天皇みずから工事現場に足を運んだのに…
桓武天皇によって行われた、長岡京から平安京への遷都。中国の「都城制」を参考に平安京の造営が進められたが、結局、計画通りにはいかなかった。何が起きたのだろうか? ■桓武天皇も工事現場に足を運んで激励 弘仁元年(810年)九月の勅において、桓武天皇の跡を継いだ嵯峨天皇は平安京を「万代の宮」、つまり「永遠の都」だと宣言し、これ以上の遷都は行わない方針を定めた。しかし、すでに平安京は桓武天皇の理想とした都とは違う姿を見せ始めていたようだ。 東西約4.5km、南北約5.2kmの大きさからなる平安京の北側には、天皇の住まいである「内裏」と、それを取り囲むようにして、役所の建物など公的施設が立ち並ぶ広大な「大内裏」があった。いずれも現在の京都御所から見て、かなり西側に位置する。 平安京の中心を貫くように、南北に道幅28丈(約84m)の朱雀大路が通り、東西には道幅17丈(約51m)の二条大路が通っていた。これらの2本のメインストリートの周囲に、大路(約24m)、小路(約12 m)の路地が数多く張り巡らされていった。 平安京以前の日本の都と同じく、古代中国で確立された「都城制」を反映した都市設計である。このように碁盤の目のように発達した都市計画を理想とした桓武天皇は、工事現場に頻繁に足を運び、関係者を熱心に励まして回ったという。 ■墓地も耕作も禁止…生活に不便すぎた都市設計 平安京造営開始当初の都市設計には、特徴があった。京内には野戦能力のある軍団の設営が見られなかったことを筆頭に、墓地の造営や耕作も禁止で、市場も東寺・西寺の傍でだけ、それぞれ東の市、西の市と呼ばれる市場を開くことを許可していた。 しかし、そこでも常に商いが行われていたわけではなく、生活は意外に不便だったといえる。また、仏教勢力の復活を警戒した天皇は当初、京内には東寺と西寺、そして頂法寺(六角堂)以外の寺院の建立を固く禁じていた。 平安京の造営開始時はとくに波乱が多く、人々の生活は平安どころではなかった。あいつぐ工事と、朝廷が権威誇示の目的で始めた東北地方への出兵が同時期に行われたこともあり、それらの国家事業を重税によって賄わねばならなかった。 民の窮状を見かねた藤原緒嗣による建言を天皇がついに受け入れ、延暦24年(805年)12月、平安京当初からの開発を担当した造宮職という役所が廃止された。これは天皇の理想を反映した平安京の造営が停止したことを意味する。 それでも大通りの状態や、貴族の邸宅の配分から、左京はすでに完成に近い状態であったと考えられるが、低地にあたる右京の開発は頓挫してしまった。 「平安京は長安など古代中国のコピー都市」と表現されることもあるが、それはあくまで当初の理想の都市計画にすぎず、実際とはずいぶんと異なる。後にはそこに住まう庶民から大貴族にいたるまでの生活上のニーズが、平安京の都市計画を左右することになった。 ・画像:藤原緒嗣(前賢故実)国立国会図書館デジタルコレクション/編集部にてトリミング
堀江宏樹