横断歩道で認知症の母が車にはねられた。一緒にいた精神を病む兄は行方不明に。ピンチはチャンスではなくピンチだけ
連載「相撲こそわが人生~スー女の観戦記』でおなじみのライター・しろぼしマーサさんは、企業向けの業界新聞社で記者として38年間勤務しながら家族の看護・介護を務めてきました。その辛い時期、心の支えになったのが大相撲観戦だったと言います。家族を見送った今、70代一人暮らしの日々を綴ります * * * * * * * ◆1.母が車にはねられた 「ピンチはチャンス」というが、認知症の家族を2人抱えているとピンチはピンチだけだった。認知症の母と統合失調症に認知症が加わった兄は、いつも同時に事を起こし、そのたびに私はピンチを切り抜けなければならなかった。 私は母と兄と3人で暮らしていたので、2人の面倒をみるのは私しかいない。しかし経済的な理由から私は会社に勤めていた。介護休暇も介護休業もない時代で、介護が必要な親のために会社を辞めようか、辞めないでいようか、と悩む人たちが私の周りにいた。それは現在も同じだと思う。私は62歳の定年を過ぎても、65歳まで延長雇用してもらおうと決めていた。この事件は定年間際の時に起こった。 会社で一人で残業をしている時に、兄から電話がかかってきた。 「お母さんが横断歩道を渡っていた時に車にはねられた。はねた人とそれを見ていた人が、お母さんを家に連れてきたんだ。はねた人が救急車を呼んだ。俺はお母さんと一緒に救急車に乗っていく」と兄は沈んだ声で言った。 母を車ではねた人が家に連れてきたということは、母が自宅を言い、歩けたと思った。横断歩道は自宅のすぐ近くだった。 私は、「どこの病院に行くか分からないから、病院についたら電話して。会社の電話番号をメモして持って行ってね。私は会社にいるから」と言うと兄は「分かった」と答えた。
◆連絡の取れない兄 大変なことになったと思った。母の容体が悪ければ、明日は会社を休まなくてはならない。私の記事を載せる紙面は決定しているので、私が書かなければ、新聞紙面に穴をあけてしまう。必死で記事を書き終えたが、2時間以上たっても兄からの電話はなかった。 兄には私の携帯番号を教えていたが、当時、会社が入居しているビルは携帯電話の電波が入らないことも話していた。兄は携帯電話を持っていないから、病院の公衆電話からかけてくるはずだった。 午後9時になった。交通事故なら警察に届けているはずだ。私は地元の警察に電話をした。対応してくれたのはもちろん警察官だと思うが、交通事故の記録はあり、搬送先の病院も調べてくれた。私が病院に電話すると、「個人情報保護法により、電話だけでは入院している人を教えられません。また、今日はもう午後9時を過ぎているので面会できませんから、明日の午前8時以降に来てください」と言われてしまった。 家に戻ると兄がいないので、兄が一晩中、病院で母に付き添ってくれていると思い、少し安心したのである。