「出世のチャンスじゃないか、カネをもらうってことは」田中角栄が霞が関にカネを配っていた時代の“官僚の常識”〈拒否した元検事の告白〉
「危ういタイプ」
東京の外務省本省に対し、出先の大使館の堀田さんらは「直接、田中さんと談判するなり、もっとしっかりしてくれよ」という思いを抱いたが、刑事事件を扱う検事に比べて、外務省は「紳士の方々」。堀田さんの目から見ると、押しが弱くて、「歯がゆかった」という。
外交文書によれば、米国務省は日本側に対し、「大統領の招待」「ホワイトハウスの指示」を盾にクイリマホテルへの宿泊をさらにねじ込んできた。結局、田中首相は、大統領主催の晩餐会が開かれる一夜だけ少人数でクイリマホテルに泊まり、その前後の一夜ずつ二夜は、盟友の小佐野賢治のサーフライダーホテルに泊まるとの妥協を成立させた。 こうした田中のふるまいに接して、堀田さんは「ある意味、我欲の強い、最も汚職なんかに、走りやすいタイプではないかな」と思った。 「この田中総理てのはやっぱり腕力があるし、そういう自分の欲目と言いますか、それを実現するためには相当な剛腕を発揮する人で、汚職という点から言えば、危ういタイプだ」 そして、堀田さんは「いろんな物事を実行する実力はすごい、実力がすごい、それがかえってそういう我欲と結びつくと危ない事態になりやすいんで、これは検察側としても、もっとしっかりフォローしてないといけない」と考えたという。 田中首相の訪米とカネをめぐって堀田さんがショックを受ける出来事が1974年にもあった。
カネをばらまく角栄
ホワイトハウスでの首脳会談のためにワシントンを訪問した際、田中首相は「館員にお世話になったから」と大使館に「金一封」の現金を託し、その一部が堀田さんの分として回ってきたのだ。 大使館の当時の総務担当参事官で、のちに外務省の中南米局長やメキシコ大使を歴任した堂之脇光朗さんは2015年7月、亡くなる直前、筆者(奥山)のインタビューに次のように明かした。 「今だから言ってもいいでしょうけど、館員に金一封を持ってこられたです。100万円なんです。それをぼーんと渡されるわけです」 堂之脇さんによると、安川壮(たけし)・駐米大使(当時)に「これをどうしたものでしょう」と相談した。すると、「みんなに配ったら」と言われたという。館員は100人ほどおり、「1人1万ずつ配った」という。「そしたら2人が『これは為替管理法違反です』と言ってお断りした。そんなことありましたね」 堂之脇さんによると、外国為替管理法違反を理由に現金受け取りを断ってきたのは、法務省出身の堀田力・一等書記官と警察庁出身の職員だった。 この堂之脇さんの話について、堀田さんは、2016年の筆者(奥山)のインタビューに、1万円ではなく、5ドルだったと記憶していると答えた。 1974年当時はいまとは違って、外国とのお金のやりとりへの法規制は非常に厳しく、許可が必要だった。堀田さんは「正規の手続きで持ち込まれた現金ではないな」と直感。「これは受け取れないな」と思ったという。 今年5月のインタビューでこの経緯について改めて確認したところ、堀田さんの説明は、2016年のインタビューの際よりもさらに理路整然としていた。