人生変わった学徒出陣 100歳・岩波正夫さん 戦後79年(千葉県)
太平洋戦争終盤、兵力不足を補うため、文系学生を在学途中で徴兵した「学徒出陣」。明治神宮外苑(がいえん)競技場での学徒兵入隊を前に開かれた出陣学徒壮行会で、大臣らが見守る中で行進した男性が、南房総市にいる。今年満100歳。入隊後は土浦航空隊、館山砲術学校などで訓練を受けた。終戦は、海軍少尉として神奈川県で迎えた。「1年弱の軍隊生活だが、とても心に残る」と男性。15日で終戦から79年。戦争体験を語り継げる世代が年を追って減る中、詳細な体験記を残しているこの男性に聞いた。(特別編集委員・忍足利彦) 岩波正夫さん。戦中、安房中学校(現・安房高校)から千葉師範学校本科(現・千葉大学)に進んだ。大学など高等教育機関の在籍者は徴兵を猶予されていたが、戦局の悪化で東条内閣が撤廃。岩波さんは、繰り上げで1944年9月に卒業となった。 卒業式。岩波さんらは勤労動員で不在の下級生に見送られることなく、卒業した。 10月1日付で、現在の南房総市丸山地区にあった丸村国民学校の教員になるが、在籍しただけで、実際に着任はしなかった。 10月21日、臨時徴兵検査を受けた学生らは、師範学校からまとまって神宮外苑へ出向いた。岩波さんには「あの日は小雨が降っていた。女子学生が白いブラウスと黒いスカートで観覧席にいた」という記憶がある。 配属先は茨城県にあった土浦海軍航空隊。海軍飛行専修予備学生として訓練を受けた。だが、米軍の空襲を受け、兵舎は全焼。同期生ら13人が戦死した。 基礎教程、航空法や天測などの偵察分隊学生教程は修了したが、航空機不足、燃料枯渇のため、搭乗員教育は中止になった。暗号通信や陸戦に転向した訓練になる。 45年7月12日に館山海軍砲術学校に入り、陸戦の訓練に切り替わった。九十九里に米軍が上陸する想定で、守備訓練に当たった。 8月14日、横須賀鎮守府特別陸戦隊(神奈川県横須賀市)に配属され、着任。小隊の部下30人と、ガソリンの入ったドラム缶500本を見張っていた。翌日、終戦。 復員したのは8月30日だった。籍のあった丸村国民学校に、教員として初めて着任した。 実戦の経験はなかったが、各隊での訓練や予備学生としての生活は今も強く印象に残っているという。 今は、長男の正弥さん(72)家族と穏やかに暮らす。食事も普通に食べ、身の回りのことも自分でこなす。昨年の百寿の祝いでは、ひ孫と100歳差の記念写真を撮った。 毎年10月21日にテレビで放送される、出陣学徒壮行会の映像は食い入るように見る。壮行会は2回目以降、行われることはなかった。出陣学徒の数も、国として正式に公表されることは、いまだにない。 岩のような時代の波に振り回された人生。穏やかに暮らしつつも、当時の思い出は頭の中を駆け巡る。 歴史が好きで、教員を目指して師範学校に進み、戦中は形のうえでは教員になったが、戦争で全てが無になった。 戦争は、市井の人々の人生をいや応なく変える。終戦の日だけではなく、常にそれを心に刻みたい。