なぜ愛犬家が次々と狙われたのか? 埼玉愛犬家連続殺人事件の深すぎる闇とは
長らく人と犬はよきパートナーとして共存してきた。しかし、犬をただの商売道具としてしかみない悪徳業者は後を絶たない。また、近しい存在ゆえに、人間の欲望と悪意による事件に犬が絡むことも少なくなかった。今回は、バブル崩壊後の日本を震撼させた事件について取り上げる。 ■バブル崩壊、犬ブームの終焉……混沌の時代に起きた残虐な連続殺人事件 日本の現代史に残る事件の中には、犬が絡んでいるものがいくつかある。中でも突出しているのが、平成5年(1993)に起きた「埼玉愛犬家連続殺人事件」である。この事件に着想を得て、『冷たい熱帯魚』(2010年)という映画が作られた。 筆者が旧Twitter (現在のX) で何気なく、「あれは実話を土台した映画だ」と呟いたら、すごく大きな反響があって逆に驚いたことがある。あんな事件が本当に起きたなんて、信じられなかったらしい。この事件は、主犯の異常な性格や気性が引き起こしたもので、犬が主役ではない。にもかかわらず、バブル経済が押し上げた犬ブームが終わりかけていた、あの時代の記憶を強く喚起する事件なのだ。 埼玉愛犬家連続殺人事件は、埼玉県熊谷市で犬の繁殖及び販売を行なう「アフリカケンネル」を経営していた人物とその妻が、従業員を巻き込んで起こしたものである。経営者はブリーダーとしては腕も良く、人心掌握術に長けていて口もうまく、業界の有名人だった。 ジャパンケネルクラブ(JKC)の展覧会ではハンドラーも務め、マスコミにも登場していた。アラスカン・マラミュートのブリーダーとして名を馳せており、シベリアン・ハスキーブームの仕掛け人の一人とも言われている。一方で虚言癖があり、アフリカで暮らしていたとうそぶいていた。また、反社会的勢力と接点があり、法外な価格で犬を売るような詐欺的商法も繰り返していた。さらに、売った犬を盗んでまた売るなど異常な行動もとっていた。これらの行為が発覚したことで、一連の殺人事件を起こすことになる。 証拠がなくて立件されなかったが、この事件以前にも周囲で、複数の人間が行方不明になっている。この経営者は、休止期間を挟みながら長期にわたって殺人を繰り返す、いわゆるシリアルキラーだった。 80年代後半、世はバブル好景気に沸き、犬もよく売れてアフリカケンネルの経営は順調だった。1994年10月には、2億円をかけて住居兼犬舎を新築している。しかし、その2年前には国税局の査察を受け、前年には抵当権と根抵当権を設定されており、2億円の建設費は大きな負担となっていた。考えてみれば、あの時点で2億円かけて犬舎兼住居を新築すること自体、無謀である。すでに1989年のブラックマンデー、つまり香港における株価大暴落をきっかけにした株式市場の大混乱によって、日本のバブル経済は終焉を迎えていた。 しかし、まだ日本社会にはその余韻が残っていて実感は薄かった。バブル崩壊で祭は終わったことを日本人が身をもって知るのは、1995年、阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件の発生によってである。つまり1990年代の前半、日本社会は実態と乖離した奇妙な空白期間にあり、どこか浮ついた気分のまま生きていたのである。経営者が2億円をかけて犬舎を新築したのも、時代の勢いだったのだろう。 だが新犬舎の完成前、すでに犬は売れなくなっており、借金もかさみ経営は苦しくなっていた。そこで連続殺人が始まる。最初の犠牲者は廃棄物処理会社の役員だった。その役員は犬を買おうとアフリカケンネルを訪れ、経営者と交流するようになる。 当時、役員は事業がうまくいかなくなっていたことから、経営者の勧めで、日本では知られていないローデシアン・リッジバックという犬種の繁殖を手がけることにした。そして雌雄を1100万円で購入したが、知人から不当な価格であることを知らされる。そこで騙されたことに気づき、返金を求めてトラブルになった。そこで経営者は、役員を殺害することにしたのだった。 2人目の被害者は暴力団の組長代行である。顧客と揉めることが多かったアフリカケンネルの、用心棒的な役割を務めていた。しかし組長代行は、経営者が役員を殺害したことを察知し、ゆするようになる。さらに登記済証まで要求されたため、全財産を取られるという危機感から殺害した。組長代行の運転手も、口封じのため一緒に殺害した。 4人目は、息子がアフリカケンネルで働くようになって、経営者と親しくなった主婦である。この主婦はアラスカン・マラミュートを6頭購入した。経営者は主婦に株主になるよう働きかけ、出資金の詐取を計画する。そして計画が露見しないよう、詐取してすぐに殺害した。 社会を驚かせたのはその殺害方法だ。殺害には、動物の薬殺に使う硝酸ストリキニーネを使い、遺体はサイコロ状に細かく刻んで焼却する、そのやり方は徹底していて、指の一本までもじっくり焼いて証拠を完全に消し去るのだ。手伝わされた従業員の証言によると、経営者はその殺害法及び焼却法を完全に確立していて、手慣れた様子だったという。それを「ボディを透明にする」と称し、「殺人にオリンピックがあれば俺は金メダルだ」と豪語していた。 その完璧な焼却法によって捜査は困難を極め、物証は少なく、従業員の証言を主な根拠として立件に持ち込んだ。従業員は公判で、検察が自証を引き出すために取引したことを暴露し、『愛犬家連続殺人』(角川文庫)という手記も書いている。 埼玉愛犬家連続殺人事件は、異常な人間が起こした特殊な事件である。この経営者はおそらく、犬のブリーダーをしていなくても犯罪を起こしていただろう。しかし、バブル経済とその崩壊と交差したために、この事件は時代の刻印を強く残す結果となった。こういう人間がハスキーブームの中心に座り、バブル崩壊に巻き込まれて連続殺人を再開したということが象徴的なのだ。 時代が誘因する犯罪というものがある。筆者はこの事件を思い出す度に、ハスキーブームに沸いたバブル時代と、それが崩れて多くのハスキーが遺棄されていった、あの時代の空気感を思い出す。 当時、犬の業界は最盛期で好況に沸いていた。アラスカン・マミュートやハスキーのような大型犬が売れたのも、あの時代ならではだった。今や犬は小型化する一方で飼育数で猫に抜かれ、その差がどんどん開いている。筆者にとってこの事件は、犬業界の繁栄に影が差し始めた契機として、今も強く記憶に残っている。
川西玲子