「地震で全部壊れたからこそ、新しいことできる」 33歳〝塗師屋〟が語る輪島塗の未来
「こんな良いものなんだから、伝統工芸として政府が守らなきゃだめ」。生産にかかわる地元の人たちからそんな言葉を聞いたとき、心底悔しかった。
「いや僕ら、そんなしょぼいもん売ってないから」。輪島塗は守ってもらう対象ではない。持続可能なビジネスのはずだ。それなのに、その価値を訴求できていない。
塗師屋とは単なる行商人を意味しない。企画から製造販売までを統括し、分業の職人を束ねる輪島塗の総合プロデューサーだ。価値が伝わっていないとすれば、それは塗師屋の責任ということになる。
塗師屋として田谷さんがこだわったのは輪島から外へ出るのではなく、外から輪島へ、能登半島へと向かうベクトル、「動線」づくりだった。その一環として3年には、輪島塗の食器で石川県産食材を使った料理を提供する飲食店「CRAFEAT(クラフィート)」を金沢市に開業。輪島朝市通りで計画していたギャラリーも、外から輪島へ向かう動線の延長にあった。
再起を誓った田谷さんはあの日から、展示会や講演のため全国を飛び回った。4月には、訪米する岸田文雄首相(当時)の手土産に田谷漆器店の輪島塗のコーヒーカップが選ばれ、バイデン大統領夫妻に手渡された。
夏には倒壊した旧来の店舗を撤去。更地になった場所にトレーラーハウスを運び入れた。そこを事務所とし、工房となるトレーラーも数台設置。これからさらに追加し、輪島塗ビレッジ(村)をつくりたいという。製造現場の見学、物販、食事…。いわば輪島塗のテーマパークだ。
「まずは商いをちゃんとやること。その先に輪島塗の未来とか、復興とかがあると思う」
伝統工芸は基本的には「受け身」の業界だ。だが地震があって、受け皿を一からつくらざるを得なくなった。そんな困難にあっても資金援助やトレーラーの寄付など、多くの人に支えられた。「今までの人生の中で一番新しい出会いがあった。人間ってこんな優しいんだなって」
何百年と続く輪島塗の歴史の中で、間違いなく一つの転換点にいる。「新しい経験ができている。自分たちの世代が強くなっていく、きっかけかなって思う」