「推し」が犯罪者になったファンたちの声を記録。『成功したオタク』監督に聞く、「オタ活」の喜びと痛み
ファンダムという集団ではなく、一人ひとりに葛藤や複雑な考えがあることを見せたかった
─監督と助監督のタウンさんが、それぞれの「推し」のグッズを捨てる「グッズの葬式」をしようとしていたはずが、だんだん捨て難くなってきてハッとするというところなどに、まさにそんな複雑な心情が表れていると感じました。この映画では、そういった白黒はっきりつけることのできない、一人ひとりのファンの感情に焦点を当てることが重要でしたか? オ・セヨン:そうですね。やはりファンダムという集団として見られることも多いと思うのですが、映画をつくる過程で、そのなかにいる個人個人がさまざまな顔や声を見せたり、聞かせたりしてくれるなかで、つまるところ、この人たちも人間なんだ、というふうに思いました。 「ファンダム」というと、単純で無知だとか、すごく乱暴だというようなイメージもあると思うのですが、そのような集団ではなく、そのなかにいる一人ひとりに、さまざまな葛藤や複雑な考えがあるのだということを見せたかったです。 ─制作時は観客の存在も意識しましたか? こんな人に見てもらいたいという考えはあったのでしょうか。 オ・セヨン:一人ひとりの観客のことをすべて想像することはできないけど、この映画を見に来る方だったら、似たような経験や感情を共有できるんじゃないかという思いはありました。「たくさんの人にこのファンダムカルチャーを認めてもらいたい」というよりは、似たような経験をしたコアなファンの人たちに、「これは私たちの物語だ」と言ってもらえる映画をつくらなければならない、という考えをたくさんしたと思います。 ─監督のステートメントで、ご自身がファンだったときを振り返って、「『成功したオタク』になれたこととは別に、”推し活“はそれ自体が幸せだった」と書かれていましたが、映画をつくる過程で、「推し活」や「誰かのファンでいること」そのものに宿る幸せについては、どのように考えが変わりましたか? オ・セヨン:そもそもこの映画のタイトルである「成功したオタク(ソンドク)」という言葉には、辞書的な定義があったんですね。その人に会ったり、握手をしたり、サインをもらったりといった接触をして、認知されたら、「ソンドク」です。私もかつての自分を「ソンドク」として定義していました。でもそれは過ぎ去ったというか、時間が経って、それは「成功」ではないという気がしました。 「成功」は、なにか量的なものだったり、達成すべきスコアなどで決まるのではない。長くその人を好きでいられて、そのことが恥ずかしくなければ、最終的に「成功したオタク」になれるということなんだと思います。だから結局、「成功したオタク」になりたいと言ってなれるものではなく、私の好きな人が正しい生き方をすることで、私を「成功したオタク」にしてくれる。映画をつくりながら、そんなふうに考えがかなり変わりましたね。