五社巴×深作健太 五社英雄と深作欣二、私生活もアウトローな映画監督を父に持ち。「母が失踪して父子家庭に…」「父は家では中村主水でした」
日本映画史に残る名作を数多く生んだ二人の映画監督、五社英雄と深作欣二。アウトローたちの生きざまを一貫して描いてきた二人は、私生活でも時に注目を集めてきた。破天荒に生きた名監督の娘と息子が、初めて二人で父を語り合う(構成=大西展子 撮影=大河内 禎) 【写真】深作監督、親子3人で手をつないで * * * * * * * ◆家での父は中村主水!? 五社 父親同士が同時代に映画監督としてしのぎを削っていたのだけれど、子どもである私たちがこうしてお会いしてお話しするのは初めてですね。 深作 親父たちが親しくしていたという話は聞かなかったし、僕らが撮影所などですれ違うこともなかったですね。 五社 お互い映画監督を親に持ち、しかも一人っ子同士。世代は違うけど、共通点も多そうです。でも実は私、小学校低学年までは、父がどんな仕事をしているのか知りませんでした。 深作 そうなんですね!(笑) 五社 父は当時フジテレビに勤めていて、『宮本武蔵』(1961年)や『三匹の侍』(63年)をはじめ、時代劇ドラマを精力的に作っていました。その後、テレビ局出身の映画監督第一号となるのですが、会社近くの我が家には俳優さんやスタッフさんたちが年中来ていました。でも私は「人が大勢来る家だなあ、毎日何しに来てるんだろう」と。(笑) 深作 僕には巴さんのその環境、ちょっと羨ましいですね。僕が生まれた年、親父は映画『仁義なき戦い』(73年)の撮影で京都の撮影所に行ったきり。東京の自宅には滅多に帰ってこなくて。 五社 私の場合、父が映画監督だとはっきり認識したのは小学校高学年の頃。父の作った『五匹の紳士』(66年)を母と観に行ったんですが、悪党と殺し屋たちが大金を奪い合うために死闘を繰り広げる強烈なアクション映画。とんでもない仕事してるな、うちの父親は、と思いました。
深作 僕が初めて親父の仕事を意識したのは5歳の頃、『柳生一族の陰謀』(78年)の撮影現場に遊びに行った時ですね。家で本ばかり読んでいる父とはまったく違って、大きな声を張り上げて駆けずり回っているし、スタッフも役者さんたちも自分の役割に一所懸命取り組んでいた。 大の大人が真剣な顔をして遊ぶ姿が本当に楽しそうで。それで「僕も映画監督になる!」と、撮影所の食堂で父に宣言しました。父は「一生を棒に振るぞ」と笑ってましたけど。 五社 5歳で監督宣言! 私なんて初めて父の撮影現場に行ったのは、20代で『週刊現代』の記者になってからですよ。 深作 親父も五社さんも共にアウトローを描く監督で、生き方も世間的にはアウトローのイメージが強かったと思うんです。ただ親父は、結婚当初は女優だった母(中原早苗さん)のほうが売れていたので、母に食わしてもらってた。 世田谷の家も母方のものでしたし。のちに撮った「必殺」シリーズ(72年~)の、まさに中村主水(もんど)状態。家では嫁と義母に怒られて、でも仕事に行くとカッコいい、みたいな。 五社 うちは深作家とは真逆で、とにかく父は亭主関白。母は三つ指ついて「おかえりなさい」と父にかしずく感じ。たくさんの来客に文句も言わず、何十人分もの食事を用意したり、父に尽くしていました。一家団欒からはほど遠く、友達の家で夕飯をご馳走になった時、すごく驚いた。「家族で食卓を囲んでご飯を食べるんだ!」と。 深作 でも、一人っ子だから父親からはかわいがられたでしょ。 五社 そうですね。一緒に暮らしていたとはいえ父は多忙でしたから、幼い頃は特に愛情表現過多で。会うとギューッと抱きしめて頬を擦り寄せてくる。 深作 僕は親父が42歳の時の子だからかわいがられましたけど、京都と東京で離れちゃったから、あまり一緒にいた記憶がなくて。ただ、父の職場が東映だったので、夏休みには「東映まんがまつり」をやっていた丸の内東映に放り込まれて(笑)、その間に父は上の階にある東映本社で打ち合わせ。 映画の後はご飯に連れて行ってくれるんだけど、それが毎回飲み屋。小学生のくせに、僕も日本酒やビールを飲んでましたよ。うん、日本酒のほうが甘くておいしいわ、って。