《ブラジル》記者コラム=聖人の島で起きた無慈悲な惨劇=南国の楽園を地獄に変えた近代史
特別扱いされた日本移民
対岸の町ウバツーバとの間には早い海流が流れており、生きてたどり着けない脱出不可能な監獄島として、ヴァルガス大統領が独裁政権を執った1930年以降は、ブラジル全体から選りすぐりの凶悪犯や政治犯が送致された。 そこに1946年から2年間余り、172人の日本移民も収容されていた。終戦直後、日系社会は日本戦勝を信じる「勝ち組」が大半を占め、敗戦を認識した「負け組」との間でいさかいが起き、お互いに殺しあう「勝ち負け抗争」に発展した。その勝ち組の中でも最大勢力だった臣道聯盟の幹部が、この島に送られた。 実際に殺害事件を起こした強硬派(過激派)の当事者約10人余りも島送りにされたが、それ以外の大半は臣道聯盟幹部で、DOPS(政治社会警察)の取り調べで行われた「踏絵」(御真影や日の丸を踏ませるもの)を拒絶したものなどだったという。兄弟に強硬派がいたというだけで収監され、DOPSやアンシェタ島で拷問を受け、それが元で死んだ池田福男さんもその一人だ。 森林財団職員のルーカス・トマゼウ職員(31歳)の解説によれば、1946年から3年間、島の学校で教員を務めた女性の自伝には、日本移民のことだけで1章を割き、他の収監者とはまったく違う人々であったことが記述されている。「この島は主に政治犯や重犯罪者が収監された。日常的な拷問や人権侵害の中で、日本移民は看守らと信頼関係を築き、別扱いされるようになった。技師や農業者が多くいて、壊れていた発電機や舟を修理して、痩せた土地で米まで生産して暮らしを向上させたと記録に残っている」などと説明した。 例えば収監者の山内房利さんは、数年前に発電機が壊れて以来、島に電気がない状態だったのを修理し、電気が使える状態にして皆に喜ばれた。それ以外にも船の修理もした。地味が薄い土地にも関わらず、いろいろな野菜を生産し始め、米まで収穫し、刑務所官吏を驚かせたという。
無残な日常が書かれた『アンシェタ島追想記』
だが、そこに至るまでが大変だった。 臣道聯盟の発起人の一人で島送りにされた佐藤正雄さんが書いた『アンシェタ島追想記』(1977年、自家出版)によれば、1946年12月26日、日本人の仲間12人が石牢(狭い懲罰房)に突然入れられた理由を聞きに、看守長の軍大尉と交渉しようとしたら、「お前たちの話など聞く必要ない。生かそうと、殺そうと、ただ思うようにやるだけだ」とふてくされ、兵士を獄舎の前に集めた。 《大尉を先頭に十六・七人位棒を持った(紐を付けて腕に巻き付けてある)獄卒兵が来て入り口前二列に両側に並んだ。扉を開くと同時に少尉が飛び込み、「サイサイサイサイ」(出ろ出ろ)と連呼しながら棒でところ構わず殴りつける。その内先に殴られた者が室外に逃げ出すと二列に並んで待ち構えていた獄卒兵が又、めった打ちに殴りかかり、一米三〇糎の高さのベランダより突き落とされ、転ぶところを更に殴る。卒倒する者が出てくる。この有様を見つめながら大尉は「ポーデマタポーデマタポーデマタ(殺しても良い、殺しても良い)」と声高に命令している》(52~53頁) 《一番先に殴られた池田君の如きは、四カ月も腹膜にて当病院に入院手当中、サンパウロ病院に移送するために室に連れ帰っていたところを滅多打ちにされてその場に卒倒した。一月二日、サンパウロより迎えが来て連れ帰ったが、病気は悪化して昭和二十三年七月二十三日サンジョゼにて療養中死亡せり、行年二十四歳》(53頁)などとある。 そのような非人道的な扱いに耐える中で、日本移民は官吏から一定の信頼を受けるようになり、天長節(天皇誕生日)を祝ったり、運動会を開催することも許されるようになった。奥原マリオ純監督のドキュメンタリー映画『闇の一日』(https://www.youtube.com/watch?v=kbaehRBjQ98)はユーチューブで無料公開中であり、アンシェタ島での生活が日高徳一さんによって語られている。