豪快で繊細。命がけで選手を守った故・小出義雄氏の指導哲学
女子マラソン界にひとつの時代を築いた“名伯楽”小出義男さんが亡くなった。80歳だった。髭面にサングラス。風貌通りに豪快で型破りな人だった。いつも酒の匂いがプンプン。 ここではとても文字にできないような下ネタで、有森裕子や、高橋尚子を平気でからかうが、「監督!もういい加減にして下さいよ」で済む。それだけの師弟の“絆”と、すべてが許されるような大きな“父性”が小出さんにはあった。 以前、働いていた新聞社が、大阪女子マラソンを主催していたこともあって、有森、鈴木博美、高橋と、毎大会、初マラソンに挑む若手を大会に送り込んでくれていた小出さんとは、何度か酒席を共にさせてもらった。大阪の北新地のような派手な場所は嫌い、当時、選手村があった豊中・千里界隈の居酒屋を好んだ。スタッフを帰らせると最後は選手村内の大会本部にやってきて、山ほどの缶ビールと、柿ピーを事務机の上にばらまいて、そこが即席の二次会会場となった。小出さんの独演会。下ネタあり、笑いありの会だったが、有森、高橋らの裏エピソードや自らのマラソン人生を面白おかしく語ってくれた。そして酔いがとことん回ると日本の陸上界、教育界への提言に行きつく。 「オレさ。こんな酔っ払いだけど、考えてんだよ?」 マラソンを愛し、教え子を愛した。忘れられないのは、バルセロナ五輪の銀メダルに続き有森がアトランタ五輪で獲得した銅メダルの裏側にあった壮絶なドラマだった。 小出さんには先見の明があった。 23年務めた市立船橋高校の教師時代から女性の時代が来ると読んでいた。 「世の中が豊かになると女性の時代がくる。陸上で金メダルを取るなら女性だ」 まだ五輪のマラソンに女子が作られていない時代の話である。ちなみに五輪の女子マラソンのスタートは1984年のロス五輪からだ。 「女は男より我慢強い。向上心も強い。優れている。身体能力ではアフリカ勢や欧州勢に劣るかもしれないが、オレが作るトレーニングに耐えられれば負けない」 小出さんは、陸上エリートを好まなかった。有森も高橋も高校、大学時代は平凡な記録しか持たない無名ランナーであり“押しかけ入門”である。小出さんは、選手を獲得する際の決め手を「性格なんだよ」と言っていた。 負けん気とチャレンジャー精神。有森も、鈴木も、高橋も、負けん気は人一倍強かった。何ごとにもオープンな小出さんは言葉巧みに彼女らの負けん気を記録に乗せていく。 その最初の代表格が有森だった。