極秘施設だった「川棚魚雷遠距離発射場跡」竹灯籠のあかりで幻想的に浮かび上がり…平和を願う場所に
大村湾北部に面した長崎県川棚町の片島。島内に残る戦争遺構で、国登録有形文化財の「川棚魚雷遠距離発射場跡」では年に1度、手作りの竹灯籠のあかりで建物が幻想的に浮かび上がる。住民有志が、戦後70年の2015年に始めた地域おこしのイベント「川棚片島竹灯籠まつり」だ。 【写真】戦時中の片島の様子について語り合う田崎さんと三好さん
昨年11月23日に開かれたまつりで、10回目の節目を迎えた。平和を願い、遺構を未来につなげようと、約1500本のあかりと折り鶴のオブジェが遺構を彩る。幻想的な空間はSNSなどで評判が広がり、今では多くの見物客が町内外から訪れ、平和を願う場所となっている。
遺構の集落で生まれ、子どもの頃は遺構周辺で遊んでいたという町議会議長の村井達己さん(73)は「施設で何が行われていたか、戦後も知らない子どもは集落でも少なくなかった。戦時中は極秘扱いだったから」と明かす。
魚雷発射場は1918年(大正7年)、旧海軍が海を埋め立てて陸続きになった片島に開設し、佐世保海軍工廠などで製造した魚雷の試験発射を繰り返していた。町内には、ベニヤ板製の小型船に爆薬を積んで敵艦に体当たりする水上特攻艇「震洋」の訓練拠点「川棚臨時魚雷艇訓練所」もあった。極秘施設だったため、発射場の存在は戦後しばらく知られていなかった。
「スパイと疑われないように、工員同士が出身地を聞くことすらなかった」。当時、燃料や空気を送り込む魚雷の部品を製造する工員だった同県波佐見町の田崎学さん(94)はこう証言する。
田崎さんは14歳で工員養成所に入り、製造に携わった。家業が自動車販売で機械の扱いに精通していたため、発射場内へ連れて行かれたこともあった。
何が行われているか全くわからなかったが、先輩工員たちが話していた「小型船に自動車のエンジンを付けたらいける」との言葉が今も忘れられないという。「震洋の存在を戦後に知った。まさかそんなことが起きていたなんて。戦争は人間をけだものにする」と目を伏せた。