入りびたった酒場の〝はたちメシ〟 思い出のメニューを前に「挫折ばかり」と振り返るけれど
二十歳の頃、何をしていましたか。そして、何をよく食べていましたか? 久しぶりに食べた「はたち」の頃の好物から、あなたは何を思うでしょうか。 【画像】〝酒びたりの日々〟 パリッコさんの思い出のメニューはこちら 今回は、酒場ライターの「はたちメシ」。20代によく通ったお店の、思い出のメニューを前に……。(フードライター・白央篤司) <パリッコさん:酒場ライター。1978年、東京都練馬区生まれ。日本大学経済学部卒業後、広告代理店に就職しデザイナーとして働く。20代の終わり頃から、訪ねた酒場の感想を文章にして発表するようになり、40歳でフリーランスとして独立。漫画家、イラストレーター、DJとしても活動している。最新刊は『缶チューハイとベビーカー』(太田出版)。現在、東京都練馬区に妻、娘と暮らす>
秋晴れの日の昼下がり。酒場ライターとして活動するパリッコさんと、中央線の高円寺駅前で待ち合わせた。 二十歳の頃にどんなものをよく食べていましたかとの質問に、まず「牛丼」という答えが返ってくる。 「友達の影響でよく食べてました、『牛丼太郎』という今はもうないお店で。当時は大学生で、あまり学校にも行かず酒びたりのふざけた日々を送ってましたね(笑)。仲のいい友人が高円寺に住んでたこともあって、高円寺に入りびたってたんですよ」 酒を軸として人間を描くパリッコさんのエッセイには、いつも穏やかなユーモアが漂って、私もファンのひとりなのだった。しかし20代から酒びたりで高円寺に入りびたりとは、なんとも「らしい」なあ。 「この『大将』ってお店が20代の頃、本当によく行ってた居酒屋さんです。大学時代はチェーン酒場で飲み放題ばかり利用してましたが、あるときフラッと入ってみたら居心地最高だなって。なんというか……セントラルキッチン的じゃない味が心にハマりました」 思い出深いメニューとして、マカロニサラダを挙げる。 「量が多いのに安くて、コンビーフがいっぱい混ぜ込んである。コンビーフ、好きなんですよ……ぜいたくだなあ、って」と目を細めて言われた。 最初に食べたときの感激を反芻するような口調と表情に、思わずメモを取る手が止まる。20数年前の時間が戻ってきているような笑顔で、パリッコさんは白ホッピーをぐいと飲んだ。 生まれたのは1978年、東京都練馬区の大泉学園に育つ。当時は「牧歌的な、畑の多い住宅街」で、小さい頃の夢は漫画家になることだった。 「にわのまこと先生が大好きで、『THE MOMOTAROH』がいまでも心のナンバー1作品です。漫画を描くのは大好きだったけど、投稿はせず。もっとうまい奴がいて適わないことが分かっていたし。僕は中学受験をしてるんですが、塾で心の底から勉強好きな奴の存在を塾で知って、出来が違うな……とも感じてましたね」 結局、中学受験はどこも受からず公立に進んだ。そして音楽にハマる。特によく聴いていたのは岡村靖幸。十代の終わりの頃には電気グルーヴに出合って衝撃を受けた。 「衝撃としか言いようがないです。とにかく石野卓球さんみたいになりたかった。バイトして音楽機器を買って作曲してみて、DJにも興味を持って……。大学で軽音部に入るんですけど、ミスチル好きもいればデスメタル好きもいて、もうなんでもあり(笑)。居心地よかったですね。気の合うやつがちょっとずつ出来て」 そのうちのひとりが高円寺に住んでいた、というわけである。20代の初めから仲間とインディーズレーベルを立ち上げ音楽活動を開始。パリッコさんはDJなどの他、制作したジャケットのイラストも描いていた。しかし大学には……行ってましたか? 「卒業なんて無理と思ってたらギリ単位足りました。慌てて就活してみたら、1社だけ面接に行けて。エディトリアルデザインのスタッフ募集をしてた会社で、合格したら風俗関係の雑誌広告を主に作る会社で。3年ぐらいピンク広告を作りましたよ(笑)」 そんな頃に『大将』でマカロニサラダをつまみに飲み、友人たちと音楽制作に励んでいたのだった。 「常に楽しかったですね、飲み方は破滅的でしたけど。ただ、30歳前後ぐらいで『いくらなんでもこんなめちゃくちゃな生活をずっと続けていていいのか?』と思うようになったんです。音楽のほうも相変わらず芽は出ないし」 メジャーレーベルから声が掛かる友人もいれば、大きい音楽イベントに出場する知人もいた。しかし自分にはオファーが来ない。 焦るような気持ちもあったが「だからといって、うさばらしや逃げ道的に飲むことは一切無かったですね」と即座に言い切る。酒は愛するもので酔うために利用するものじゃない、というパリッコさんの考えが伝わってくるような表情だった。 そんな中、主に酒場に行った感想を文章にして、友人の携わるサイトに寄稿するようにもなる。 「『ピコピコカルチャージャパン』などから書いてよ、と頼まれるようになって。『大衆酒場ベスト1000』という連載を100回ぐらいやった頃から別のオファーも次第にいただくようになっていったんです」