土砂の運搬役として関わった戦車壕跡の前に立つ山崎安則さん=霧島市霧島大窪(南日本新聞社)
本土決戦に備え霧島神宮周辺に20カ所以上の戦車壕が築かれた。空襲警報が鳴った日の帰り道、中をのぞくと兵士の死体が転がっていた。いつの間にか戦車隊はいなくなったが、ひどい食糧難で関心もなかった【証言 語り継ぐ戦争】
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