森友哉は天性の打撃を発揮し、4度の甲子園で打率.473、5本塁打 自身が印象に残る一打として挙げたのは?
ほかにも、2年春のセンバツ初戦の花巻東(岩手)戦で、大谷翔平(ドジャース)の外角高めのストレートに力負けせず、レフトへ返した一打や、3年の甲子園の日本文理(新潟)戦での1試合2本塁打も、鮮明に覚えている。 また映像でしか見られなかったが、2年秋の国体で桐光学園の松井裕樹(パドレス)のスライダー、ストレートをきっちり捉えて放った2安打も、超高校級のバッティングだった。 入学当初は左投手をやや苦手としていたが、1年のある時、西谷浩一監督から「上のレベルになっていけば、左打者にはワンポイントで左投手や左の変則投手がくる。そこをクリアしていかないと本物にはなれないぞ」と言われた。すると翌日から、打撃練習で左投手ばかりを打ち始め、早々に課題をクリアした。 ところが、どんな相手に対しても、常に自分の形で打てていた森に、"異変"が見えたのが3年の夏。3年春のセンバツ大会中に右足のふくらはぎを痛め、それまでにない打撃不振に陥った。 ただこの時点では、コンディションが戻れば問題ないはずと見ており、実際、夏が近づくにつれ調子を上げてきた。だが、今度は夏の大阪大会直前に右手首を痛め、さらに右ヒジにも違和感が出て、まさに満身創痍で迎えた最後の夏だった。 そのなかで、大阪大会は7試合で25打数10安打(打率.400)、9打点、1本塁打。結果は残したが、森にとって大阪大会での4割は物足りない数字で、なにより7試合のなかで完全に崩されたスイングを3度も目撃した。いつもの森ではないことは明らかだった。 甲子園でも苦労するのでは? と見ていた甲子園初戦で、先述した日本文理戦での2発。あらためてモノの違い、最後の夏にかける思いの強さを見せつけたが、2回戦の日川(山梨)戦では公式戦初となる1試合2三振。やはり、いつもの森ではなかった。
そして迎えた明徳義塾(高知)戦。森は2本のヒットを放ったが、先制した初回、自らの判断で試みた三盗に失敗。攻撃の流れを止めてしまうと、2回の守りでは捕手である自身からの三塁牽制が悪送球となり同点。さらに追加点を奪われ3回終了時点で1対5。その後も流れを呼び戻せず、3回戦で姿を消した。 その試合後の囲み取材で、生粋の野球小僧がかすかな笑みともに口にしたひと言が、今も耳に残っている。 「しばらく野球はいいかなって感じです」 春夏連覇のあとのチームを、主将として、主軸として、女房役として牽引。前チームと比較されることもあっただろう。そうした重圧から解放され、出てきた言葉だった。悔しさと充実感をにじませ、森の高校野球生活は終わった。 校野球2024年夏の甲子園」特設ページはこちら>> 森友哉(もり・ともや)/1995年8月8日、大阪府出身。大阪桐蔭では1年秋から正捕手を務め、2年時はエース・藤浪晋太郎らとともに甲子園春夏連覇を達成。3年時も主将として春夏続けて甲子園に出場。13年のドラフトで西武から1位指名を受け入団。1年目の7月に一軍昇格を果たすと、3試合連続本塁打を放つなど、41試合に出場し打率.275、6本塁打と結果を残した。19年は126試合でマスクを被り、首位打者、MVPを獲得。22年シーズン終了後にFA宣言をして、オリックスに移籍。23年は勝負強さを発揮し、リーグ3連覇に貢献した
谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro