10万部突破 養老孟司氏の集大成的1冊。変化し続ける世界をうまく生き抜く哲学本『ものがわかるということ』【書評】
「わかる」と「わからない」の間にある違いはなんだろうか。『ものがわかるということ』(養老孟司/祥伝社)は、そんなことを自然と考えさせられるような一冊である。冒頭はこう始まる。 若い頃は、勉強すれば、なんでも「わかる」と思っていた。(p.3より引用)
たしかに、本を読み情報を得ることでわかるようになる、となんとなく思いがちであるが、実際に自分の経験と照らし合わせて考えてみると、そうではないことも多い。無論、知らないのであればわかるはずはないのだが、たとえ「知っている」としても、それは「わかる」こととは同義ではないのだ。 現在は、大体のことは調べれば情報を得られる時代だ。例えば、日本から8600km離れた北極圏近くにアイスランドという国がある。人口、平均気温、年間降水量、どういった文化があり、何が主食か……といった情報はいくらでも検索でヒットする。現地のことを紹介している動画なんかをチェックすれば、より細かなことを知れるかもしれない。ただ、それだけではアイスランドのことを「わかった」とは到底いえないだろう。 私のライフワークは「旅」なのだが、これまでは「いろいろな世界を知りたいから旅をする」と考えていた。しかしながら、上記のことを考えると、どうやら違ったらしい。私の場合、自分の感覚で世界を感じ、いろいろな世界を「わかりたい」という欲求が強いのだろう。だからこそ、「自分の足で現地へ行く」という体験を重要視しているのだ。もちろん足を踏み入れても、わかることはほんの少ししかない。だが、一歩を踏み入れるのと、そうでないのでは大きな違いがある、と強く感じている。旅好きは共感してくれるのではないかと思う。
わかった気になってしまう危険性
なぜ我々はわかった気になってしまうのだろうか。近年、社会全体でその傾向は強くなっているように思う。本書では、「変わらないもの」が増えたことがその要因のひとつとして挙げられている。変わらないものというのは、言葉や記号、情報などだ。 いまや、記号が幅を利かせる世界になりました。記号が支配する社会のことを「情報社会」と言います。記号や情報は動きや変化を止めるのが得意中の得意です。 現実は千変万化して、私たち自身も同じ状態を二度と繰り返さない存在なのに、情報が優先する社会では、不変である記号のほうがリアリティをもち、絶えず変化していく私たちのほうがリアリティを失っていくという現象が起こります。(p.22より引用) 変化しないものに囲まれて生きていると、自分が変化していることを忘れてしまう。そうなると、変わらない情報を得ることでわかった気になってしまうのだろう。実際にはただ情報として知っているだけなのだけれど。