【実録 竜戦士たちの10・8】(10)FA宣言第1号の阪神・松永浩美、「これからの選手のためにも」
◇長期連載【第1章 FA元年、激動のオフ】 日本シリーズが終わりFA宣言の解禁初日となった1993年11月2日。落合博満、駒田徳広らの動向が注目された中、申請第1号となったのは阪神の松永浩美だった。 「FA宣言します。書類はきょう昼過ぎ、郵送しました。FAという制度ができたのだから使わないと。阪神を含めた全球団の評価を聞いてみたい」 大阪府豊中市の自宅マンション前。3日ぶりに報道陣の前に姿を見せた松永は、さすがにやや緊張気味にこう話した。 そもそもFA制導入を選手会総会で提案したのが当時オリックスの選手会長だった松永で、「改革委員として携わってきた者として、これからの選手のためにもやりたかった」と言う。 ただ前年、野田浩司との大型トレードでオリックスから阪神に移ってきたばかり。そして野田が17勝5敗で最多勝に輝いたのとは対照的に、数々の故障もあり、80試合の出場で2割9分4厘、8本塁打と期待を裏切る結果に終わっている。 「さすがに今年は…」というのが日本人的感覚だっただろうが、松永はあくまでルールにのっとり日本プロ野球のFA第1号となった。そして、「大歓迎」と獲得に名乗りを上げたのがダイエー監督の根本陸夫だった。 これには米国流の「移籍の自由を認める」制度のドライさを、いまさらながら再認識させられた球界関係者も多かったに違いない。 また「明日は祝日なので、(書類の)投函(とうかん)は4日になると思う」と話した駒田も改めてFA行使を”宣言”。「巨人とは今さら話し合うつもりはない。話し合っても仕方ないからFA宣言するんです。ファン感謝デーが巨人最後のユニホームになるでしょう」と、巨人との決別を口にした。 活発化するFA市場の動きは中日が秋季キャンプを行う沖縄にも連日、テレビや新聞で伝わってくる。「FAについては球団社長に任せてあるけど、そりゃ新聞に出ている名前を見ればほしいですよ」と高木守道監督。 「外国人を含めて、FA、トレード…。それをうまく活用し、補強したチームが強くなる。どういう補強ができるかが、大きなポイントになるんだから」と率直な感想を語った。 そしてこの日も落合は「(FAに関しては)公式行事がすべて終わってからだ」と繰り返すばかり。このオフ一番の主役は、いまだダンマリを決め込んだまま「落合記念館」の開場準備が進む和歌山県太地町に向かった。 =敬称略(館林誠)
中日スポーツ