道長が呪術で死者蘇生を試みた末娘・嬉子の悲劇 摂関家凋落のはじまりとなった死
NHK大河ドラマ「光る君へ」第48回「物語の先に」では、まひろ(藤式部/演:吉高由里子)や道長(演:柄本佑)を中心に、登場人物たちの晩年やその後の話、それぞれの娘や息子ら次世代の活躍が描かれた。そのなかで摂関家の不穏な未来を暗示したのが、道長の末娘・嬉子(演:瀧七海)の死である。今回はその嬉子の生涯を追っていく。 ■一族の期待を背負い、輝かしい未来が約束されていた末娘 藤原嬉子(よしこ/きし)は、藤原道長の6女で、母親は源倫子である。嬉子が誕生したのは、寛弘4年(1007)1月のことだった。寛弘4年といえば、道長が夏に金峯山に参詣した年だ。ちなみに、長姉の彰子とは約20歳の差があった。彰子は年の離れた妹の誕生を祝って、母・倫子と妹に織物衣と産着を贈っている。 寛仁2年(1018)、嬉子は12歳で尚侍に任官される。ちなみに嬉子の姉で居貞親王(後の三条天皇)に入内した妍子と、後一条天皇に入内した威子も尚侍に任官されており、一種の「入内のための箔づけ」だったと考えられている。翌年には裳着を済ませ、従三位に叙された。入内への準備が着々と進められていたのである。 寛仁5年(1021)、15歳になった嬉子は、姉の彰子が産んだ敦良親王(後の後朱雀天皇)に入内した。この入内のために嬉子は兄の頼通の養女となっていた。父の道長は存命だったが、3年前に出家しており、健康状態にも不安があった。いくら権力を維持しているといっても、出家した身であることから、嬉子の行く末を案じて自分の跡を継いだ頼通に託したのである。この時嬉子は15歳、敦良親王は13歳で、2人はおばと甥にあたる関係だった。 この時点で太皇太后には彰子、皇太后には妍子、中宮には威子がおり、さらに東宮妃に嬉子と、道長の4人の娘が天皇や親王の妻としての地位を独占することになった。 入内から4年後の万寿2年(1025)、嬉子は敦良親王の皇子を産む。妍子は内親王を2人出産、威子は禎子内親王を産んでおり、威子はこの時点で子を産んでいなかった。そのため、道長や頼通をはじめとする摂関家の人間は、待望の皇子誕生を大いに喜んだ。 しかし、喜びは続かない。皇子を出産した嬉子は、そのわずか2日後に赤斑瘡(現在でいう麻疹)で薨去したのである。享年19歳という若さだった。 末娘が姉妹のなかで最も早くに亡くなったということは、道長を動揺させた。藤原実資の『小右記』や藤原行成の『権記』によると、道長は陰陽師らを屋敷に呼び、死者蘇生の儀式を依頼したという。「魂呼(たまよばい)」などといわれるこの儀式では、屋敷の屋根にのぼって大声で死者の名を呼んだりしていたらしい。 嬉子自身は夫が即位する前、東宮の時代に薨去しているが、20年後、息子である後冷泉天皇の即位に際して皇太后の位が追贈された。 嬉子の薨去から2年後の万寿4年(1027)には、道長の意向で妍子の娘である禎子内親王が入内している。しかし、頼通や教通との関係は悪く、2人は自分の養女や娘を入内させたが、禎子内親王が産んだ尊仁親王(後の後三条天皇)以外、遂に皇子は誕生しなかった。 嬉子の死は道長にとって自分の子(寛子、妍子、顕信)に先立たれる哀しみの始まりとなっただけでなく、摂関家がやがて外戚としての権力を失っていく凋落のスタート地点でもあった。
歴史人編集部