紫式部の百人一首「めぐりあひて~」の意味や背景とは?|紫式部の有名な和歌も解説【百人一首入門】
2024年のNHK大河ドラマの影響か、紫式部がとても注目されています。紫式部から連想するものを挙げるとしたら、『源氏物語』でしょうか。紫式部や『源氏物語』の名前や概要は知っていても、じつはまだ知らないことがたくさんあるのかもしれません。 写真はこちらから→紫式部の百人一首「めぐりあひて~」の意味や背景とは?|紫式部の有名な和歌も解説【百人一首入門】 あらためて日本文化を学び直すとしたら、なじみやすいところから考えると、『小倉百人一首』でしょうか? 小倉百人一首から日本文化を垣間見てみましょう。本記事では、紫式部の百人一首をご紹介いたします。
紫式部の百人一首「めぐりあひて~」の全文と現代語訳
主人公・光源氏の恋模様を描いた代表作『源氏物語』の作者として、広く知られている紫式部。平安時代を代表する女流作家として名高い紫式部ですが、勅撰和歌集に歌が60首近くまとめられており、歌人としても優れた才能を発揮させました。 その中でも特に有名な歌が、 ◆めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな ではないでしょうか? この和歌は、『小倉百人一首』の中で、57番目にまとめられています。旧友との再会を詠んだとされる和歌。 現代語訳すると、 久しぶりにお会いできたのに、それがあなただとわかるほんのわずかな間に、あなたは慌ただしく帰ってしまわれた。まるで、すぐに雲に隠れてしまう夜半の月のように。 という意味になります。 「夜半の月」は、夜更けの月を意味し、「かな」は詠嘆(感嘆詞)の終助詞です。百人一首の古い写本や和歌集では、「夜半の月影」と記されていることもあります。 ◆そもそも紫式部ってどんな人物? 『源氏物語』を執筆した、平安時代の作家というイメージが強い、紫式部。では、実際の紫式部はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、簡潔にご説明いたします。 紫式部は、天延元年(973)頃、平安時代中期の漢詩人・藤原為時(ふじわらの・ためとき)と、藤原為信女(ふじわらの・ためのぶの・むすめ)の子として生まれました。紫式部は幼い頃から才気煥発で、学者だった父・為時の影響を受けながら、文学や漢詩に親しんでいたとされます。 兄よりも早く漢詩を習得し、為時は紫式部が男の子として生まれなかったことを残念がったそうです。その後、紫式部は越前守に任命された為時に従って、現在の福井県越前市に移住しますが、結婚のため一年ほどで帰京しました。 相手は、為時の同僚で親族関係にあたる、藤原宣孝(のぶたか)です。宣孝は温厚篤実な性格で、紫式部との関係性も良好だったとされます。しかし、とにかく艶聞が絶えなかったそうです。二人の間には、のちに優れた歌人となる賢子(けんし)という娘が生まれますが、紫式部はどこか寂しい気持ちを抱えていたのかもしれません。 そんな二人の夫婦生活ですが、宣孝が病没してしまったため、わずか数年で終止符が打たれてしまったのです。同時期、夫を亡くした絶望感を埋めるように書き始めたのが、『源氏物語』であるとされます。寛弘2年(1005)頃、宮廷に出仕するようになった紫式部。 紫式部の評判を耳にした藤原道長は、一条天皇の后になった長女・彰子(しょうし/あきこ)の女房に、紫式部を抜擢しました。紫式部は、彰子に仕えている間に『源氏物語』を完成させ、またたく間に宮中で話題となったのです。 『源氏物語』では、登場人物の心情や苦悩などが、見事に表現されています。このことからも、洞察力に長け、文才に恵まれていた紫式部の一面を垣間見ることができるのではないでしょうか?