敗戦処理からスタートした「ヒゲ魔神」五十嵐英樹のリリーフ人生 心に響いた権藤博からの助言
短いイニングを投げるリリーフ投手にも、長いイニングを投げないといけない先発投手の配球が参考になる──。先発は不向きと自認していた五十嵐にとっては、特に響く助言になった。さらに権藤がコーチに就任したことで、試合中のブルペンにおける準備の仕方も変わった。 「権藤さんご自身、現役時代に投げ過ぎて肩を壊された方だからだと思いますが、『ブルペンではなるべく球数を少なくいくように』という方針でした。だからまず言われたのは、『スパイクの紐をギュッと締めてブルペンに行くな』と。つまり、実際に投げるまではリラックスして、いざ投げるとなったら紐を締めて、という」 中日入団1年目の61年、権藤は69登板のうち44試合に先発して32完投で12完封。35勝という驚異的な勝ち星を挙げて310奪三振、429回1/3で防御率1.70という数字はすべてリーグトップだった。翌62年も同様に投げて30勝を挙げたが、登板過多によって肩を痛め、短命に終わった。ゆえに指導者となってからは、ブルペンでの球数にも気を配っていた。 「若いピッチャーは、よく権藤さんに怒られてました。たとえば、準備しなくていいところで準備して、いざ『準備しろ』と言われたら動くのが遅かったり。ベンチから何も言われてないのに、勝手に『次には自分かな』と判断して投げ始めたり。そういうピッチャーがいるとわかれば、権藤さん、ベンチから走って来て思いっきり叱った時もありました(笑)」 細かい部分まで指導した権藤のもと、投手力は向上。野村弘樹、川村丈夫、三浦大輔、戸叶尚という4人全員が10勝を挙げ、佐々木は3勝38セーブで4度目の最優秀救援投手賞。"マシンガン打線"とかみ合い、チームはヤクルトと優勝を争って2位に浮上する。オフには権藤が監督に就任して頂点を目指すことになるが、翌98年2月、五十嵐は右ヒジの故障が再発してしまった。 (文中敬称略) 後編につづく>> 五十嵐英樹(いがらし・ひでき)/1969年8月23日、大阪府出身。東海大工高から三菱重工神戸を経て、92年のドラフトで横浜から3位指名を受け入団。1年目からリリーフで27試合に登板し、2、3年目は先発もこなした。98年は佐々木主浩につなぐセットアッパーとしてリーグ優勝、日本一に貢献した。2001年の引退後は球団職員として、スコアラー、プロスカウトなどを歴任。プロ通算245試合登板、32勝28敗9セーブ、防御率4.13
高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki