政治力学交錯の舞台―政治史に残る「音羽の家」と「友愛」理念の強さと弱さ
政治家の私邸が、活動の表舞台になった時代がありました。東京都文京区音羽にある通称「音羽御殿」、鳩山一郎元首相の自宅だった鳩山会館はまさに戦後政治史を代表する建築のひとつです。 多数の建築と文学に関する著書でも知られる名古屋工業大学名誉教授、若山滋さんが鳩山会館が映し出した戦前戦後の政治信条と権力の変遷を執筆します。 ----------
「大磯」vs「音羽」
「音羽」という言葉が、文筆家のあいだでは講談社を指し、政治家のあいだでは鳩山一郎邸を指す時期があった。 それだけこの「鳩山家」が特別な意味をもち、日本の政治史に寄り添うように続いてきたということだ。現在の安倍首相は岸元首相の孫、麻生財務相は吉田元首相の孫だが、名前が違うので「家」としての連続感がない。しかし鳩山家は、和夫、一郎、威一郎、由紀夫、邦夫、二郎(邦夫の子)と、政治家が五代続いて、総理大臣が二人出ている。 戦後日本の政治状況は、GHQ(連合国軍総司令部)と吉田茂の強引なともいうべきリーダーシップからスタートした。当然、反対勢力が形成される。その吉田を倒そうとする政治家たちが担いだのが鳩山一郎であった。先に取り上げた「大磯」が、吉田茂の政治信条を伝える「吉田学校」を意味したとすれば、「音羽」は、「反吉田派」の政治家が集う根拠地を意味したのだ。そして現在の自民党が発足する拠点ともなっている。 どのような家であったか。
御殿と呼ばれた家
大磯の吉田邸は純和風の数寄屋建築であったが、音羽の鳩山邸は完全な洋風建築である。先に取り上げた三菱の岩崎邸に似た豪邸で、音羽御殿とも、鳩山御殿とも呼ばれた。坂を上りながらアプローチし、主室の前がサンルームとなり芝生の庭につながるところも似ているが、この時代には珍しい鉄筋コンクリート構造である。 家を建てるにあたって、鳩山一郎は中学時代からの友人である岡田信一郎に設計を依頼した。東京日比谷の明治生命館でよく知られる様式派の建築家で、吉田(茂)邸の設計者吉田五十八は東京美術学校(現東京芸大)における岡田の弟子に当たる。対立関係にあった二人の政治家は、どちらも一流の建築家に自邸の設計を依頼したが、その様式は洋風と和風、やはり対立関係にあったのだ。 竣工したのは1924年、前年には関東大震災があり、翌年には普通選挙法が成立している。鳩山は政友会分裂によって政友本党に参加したが、やがて政友会に復帰して、幹事長、内閣書記官長、文部大臣となる。つまりこの建築とともに、昭和という激動の時代の幕が開け、政治家鳩山一郎の躍進の幕が開けたのである。 しかしこの時代、建築界ではフランク・ロイド・ライトの設計による帝国ホテルが竣工(1923)し、日本にもモダン建築が入りはじめている。その意味で(建築の専門家から見ると)、鳩山邸のような洋風建築はすでに、押し寄せるモダニズムの波に取り残される瀬戸際にあった。またこの時代は、住宅に新しい文明技術(電気や水道など)が導入される時代であり、鳩山家の設計においても、そういった技術は積極的に取り入れられた。そう考えればこの家は、もはや古くなりつつある意匠と新しい技術の合体であったといえる。 このことは、鳩山一郎という政治家が、古くなりつつある大正時代的なヨーロッパ風の理想を胸に抱きながら、近代技術と東アジアが勃興する昭和という時代の激動に対処せざるをえなかったことを象徴するように思える。