「不良生徒は警察に突き出せばいい? サービス業に徹する学校や教員が求めた生活指導方針「ゼロトレランス」とは?
罰を通じた子どもの行動管理
大事な点がいくつかある。 一つは、ゼロトレランスは、本来なら時間をかけてベテランから新人へと継承されるべき匠の技の継承が困難になった時に導入された対症療法的な措置だったということ*8。 子ども理解に通じた経験豊かな教員が一斉にいなくなり、経験の浅い教員でも「毅然とした態度」で生徒と接することができるようにと導入されたのがゼロトレランスだった。 だからこそ、ゼロトレランスの例外なきマニュアル的指導が若い教員には歓迎される一方で、それぞれの生徒のさまざまな事情を踏まえ、個別柔軟に時間をかけて対応しようとする教員が阻害され、教師の間で分断が生じるという弊害が生じた。 2010年頃から福山市の小中学校で広まっていったゼロトレランスについて調査した小林克己は、その象徴である「生徒指導規定」についてこう書いている。 子どもに寄り添い、そのつまずきを受け止め、理解と援助を進めようとする教師の前に、「規定」は大きく立ちはだかっています。どこの職場においても、「規定」を〝踏絵〟のようにして、もの言わぬ・言わせぬ教師づくりが進行し、「例外なき指導」「毅然とした指導」「ゼロトレランス」のことばの前に異論をはさみこむことができないような息苦しさが広がってきました*9。 もう一つの大事な点は、ゼロトレランスの狙いは、生徒の人間としての成長ではなく、「学力向上」という学校業務の邪魔をする生徒の排除だということだ。 アメリカにおけるゼロトレランスは、学力標準テストと結果責任による全国的な管理体制を築き上げた「落ちこぼれ防止法」を契機に拡大した。 教育法学者である世取山洋介は、日本におけるゼロトレランス拡大の契機も、2007年に復活した全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)だったと指摘し、1980年代の荒れた生徒たちへの対応として全国に拡大した「管理主義」とは別物だと位置づけている。 ゼロトレランスには、「権威への服従の教え込みなどという子どもの人格形成への働きかけはもはや存在せず、あるのは、競争的秩序の効率的な防衛のための罰を通じた子どもの行動管理だけ*10」と指摘する。