にしおかすみこ、認知症の母から糖尿で病院に同行したあとにお願いされたこと
濃い緑を嗅ぎながら…
アスファルト舗装の田舎道。 濃い緑を嗅ぎながら、ふたりで自転車。先を行く母。肩が上がり明らかに力が入っていて「うんしょ。どっこいしょ」という声が漏れてくる。 後ろから私が「ママ、スイッチ~。電源入れて~。それ電動!」と言っても、 「うんしょ。どっこいしょ。重いー。生きる気力が全部なくなるー」と必死でペダルを漕ぐ。不意にキュッとブレーキをかけ停止する。あまり前後の間隔を空けていなかった私は、追突しそうになり、「わわわ」っとハンドルが左右にブレる。 母が「危ない! どこ見てるの。よそ見しない。後ろから車が来るよ。音がする」と。一緒に路肩に寄ると、ほぼ音のしない車が遠くの角から姿を現し、スウッとスマートに私たち親子を抜き去る。あれが聞こえて、そんなに注意力の幅があって、何故私の声が入らない。
「にしおかです。」
再び自転車。電動のスイッチも入れ、妙に背筋の伸びた老婆の後ろ姿を見つめながら病院に到着。 待合室のソファに並んで腰かける。汗だくの母がバッグから扇子を取り出し、パラパラと開くと、水色地に赤マジックで『にしおかです。にしおかです。』と書き込まれた大小様々な文字が縦列にびっしり並んでいる。ギョッとする。血まみれで呪い殺されそうだ。 母が「ありゃ、またお姉ちゃん。いつの間に~。何でも名前書いてからに~」と胸元を扇ぐ。 そして急に自分の顔をグイっと私の顔に横づけし、赤文字だらけの扇子で口元を隠すようにし、「……ねえ、それはそうと、ママ、あんたの言ってることが時々わからないんだけど。やられているのは耳かね? 頭かね?」と。怪談話風の雰囲気に私は一瞬、母の言っていることがわからない。 改めて反芻してみる。 ……ああ……そんなふうに思うの? 実際どちらなのだろう。 「年取ったらなんやかんやあるよ。でもママ、その年で自転車乗れるじゃん。凄くない?」と返したら、 「そう、そこなんだよ! この際、自転車置いてタクシーで帰るっていう手はどうだい? ママ明日ひとりで回収しに来るよ。今日だけ楽したい。ねえタクシーで」とせがまれる。 ……うるさい。聞こえないフリをする。 比較的、平穏な日。