阿部定の素顔 まるでどこかのスター、三橋美智也のファンで後援会にも、気まぐれな人…どんな晩年を過ごしたのだろうか
自分で死ぬような人じゃない
阿部定に勝山ホテルの仕事の世話をした、オーナーの島田国一という人物がいる。彼は偶然にも、事件がおきた「満佐喜」の隣室にいた。現場で、吉蔵の遺体も目撃したという。 すでに十数年前に死去しているが、夫人の節子さんが健在である。彼女は戦時中、川口市に疎開していたが、そこで偶然にも、若い頃の阿部定と同じ町内に住んでいたことがある。 「吉井昌子という偽名を使っていたけれど、阿部定さんでした。女学生だった私を映画に連れて行ってくれたりして、親切な、きれいな女性でした」 その後、数十年してから、奇遇にも再会。夫が経営する勝山ホテルで、しばらく一緒に働くことになる。 「働くと言っても、当時阿部さんはすでに60歳を越えていたから、実際は私たちが世話をしていたようなものです。まわりの人たちには、事件のことは隠していたから、だれも阿部定とは知りませんでした。身体が丈夫で持病もなく、明るいおばちゃんでした」 そのホテルから姿を消したのは、昭和46(1971)年の6月頃。部屋には、ホテルの箸袋の裏に書かれた置手紙が残されていたきりだった。 「行く宛てがあったのかどうか、まったくわかりません。当時はもうパトロンのような人はいなかったし、親族の方たちともまったく連絡はなかったから」 その後、今に到るまで連絡はない。 「彼女は、自分で死ぬような人じゃないです。いつもだれかを頼りに生きてきた方だったから」
不確定情報の数々
じつは、勝山ホテルから姿を消した後、ひとつだけ消息がある。現在の浅草ビューホテルの裏手にあったという「あづま旅館」に一時滞在していたというのだ。 ある女性週刊誌が、それを記事にしている。それによると、旅館の2階の奥の四畳半が阿部定の部屋で、出たり入ったりの暮らしをしていた。ところがある日、「ちょっと行ってくる」と女将に言い残し、手持ちの現金50万円と風呂敷などを持ち、タクシーに乗ってどこかへと消えた。それっきり、二度と戻らなかったという。 現在、あづま旅館は駐車場になっており、近所の人に訊くと、「旅館があったことは知っているけれど、阿部定さんの話はきいたことがない」という。あづま旅館は木造の古い木賃宿で、近所では“泥棒宿”といわれ、あまり筋のよくない客が出入りしていたらしい。 偶然にも、あづま旅館は島田家と同じ町内でもあり、節子さんは「もし阿部定さんがそこにいたなら、必ず噂は耳に入っていたはず。その旅館にいたとは思えない」という。 真相は定かではないが、いずれにせよ、それが昭和55(1980)年のことである。