〈自分にとって父親とは?〉記憶にない父を探しにイタリアへ~映画「パドレ・プロジェクト 父の影を追って」にみる人間の物語
すでにイタリアにはいないという情報も出てきて、父に会えるかどうかはわからない。滞在期間は予算の関係で10日しかない。果たして、武内は父に会えるのか。 イタリア語を猛特訓したころに覚えた表現、「父さんと呼んでいいですか」という言葉が宙に浮かんだまま、映像はなだれ込むようにエンディングへ向かう。
子供にとっての父親とは
父とはなんだろう。武内のような環境に置かれた者、父の記憶がほとんどない者に限らず、この作品はそれを考えさせられる。 表現者の多くは父を探している。目の前にいたとしても、その存在がわかり得ない父を。「父の物語は小説の王道」と語ったのは文芸評論家の三輪太郎だが、古今東西、父探しは永遠のテーマとも言える。 作家、赤瀬川原平のデビュー作で芥川賞受賞作『父が消えた』は、父を葬る墓を探す場面から始まるが、赤瀬川の半生すべてを描いたものだった。作家、辺見庸の『1★9★3★7』も従軍中のことを話さなかった父が中国戦線で何をしたかを探り続ける物語だった。 卑近な例だが、46歳の年に酒の飲み過ぎで死んだ登山家で建築家の永田東一郎は死の直前、やはり酒が原因で51歳で死んだ父について、酔い潰れながらこう語っている。 「親父のこと、好きじゃなかったんだけど、おんなじになっちゃったな。まったくしょうがねえな、俺も」 良き父であれ悪しき父であれ、子供達は父のことが最後までわからない。わかっていたとしてもどこまでわかっていたのか。そして、子供達は父に、本当は何をしてほしかったのか、どうしてほしかったのか。 武内の私的ノンフィクション「パドレ・プロジェクト」はそんな問いを深く、長く考えさせる作品と言える。
藤原章生