〈自分にとって父親とは?〉記憶にない父を探しにイタリアへ~映画「パドレ・プロジェクト 父の影を追って」にみる人間の物語
人種の坩堝で才能を開花
高校を出て進学も就職もせず、母と暮らす家で「ダラダラしていた」。そんな武内は「日本を飛び出したい」と単身ニューヨークに渡った。高校のころに始めたギターを手にストリートパフォーマンスから始め、リサイタルをするまでに至った。 「人種の坩堝(るつぼ)、カオスになりながらもなんだかんだ(人々が)共存しているのが好きで、7年もいた。日本という小さな島国で僕が抱えていたアイデンティティクライシスが小さなものに思え、気がついたらそんな悩みはどこかに消えていた」 帰国するなり、お笑い芸人「ぶらっくさむらい」としてデビューする。 そのころを知る友人の漫画家、星野ルネがこう振り返っている。 「彼は、昔はミュージシャンになりたかったんですよね。でも、途中から芸人になった。子どものころの話を聞くと、見た目やルーツでバカにされたりして、人を、社会を見返したいと思ってアメリカに行って、勉強して。 笑われるのや、からかわれるのが嫌いだったのに、芸人になりたいと思った人。自分のコンプレックスを笑いにできるぐらい強い人なんです」 星野はカメルーン人の母の再婚で、学者だった日本人の父が暮らす兵庫県姫路市で育った。外見はアフリカ人だが、カメルーンを誇りにする強い母のお陰か、人格者の父の導きか、鬱屈することなく育った。そんな星野は武内の表情に「父の不在」を感じ取る。 「(武内は)ふとしたときに寂しそうな、心細そうな顔をする人でもあるんです。本当は社会に向けて(何かを)伝えようとしていたけど、自分のパーソナルな、もっと近いところで見つけにゃあかん、ということに気づいて、こういう活動に行きついたんかなあと」 40歳をすぎての父探しだ。
コロナ禍に父を探しにイタリアへ
きっかけはコロナだった。 長年「父親とは実感できず、いつか会えたらなあという程度にしか思わなかった」が、「コロナでイタリアでたくさんの人が亡くなったと聞き」、いてもたってもいられなくなった。 いまでは「ただの風邪」「あれはなんだったのか」と矮小化されつつあるコロナ蔓延の2020~21年。実は多くの個人に陰に陽になんらかの変化をもたらしており、武内もその一人だった。 コロナが明けかけた22年5月、武内は撮影監督の成富紀之、イタリア語の先生で通訳でもあるキキとイタリアへ飛ぶ。40年前の父の住所、ミラノは130万都市。結婚していなかったため、生年月日も知らない父の行方は暗中模索だった。 「父を探しています」というチラシ配りもするが、手がかりは一向に得られない。そんな中、アフリカンレストランで出会った若い男性にこんなことを言われる。 「父を探していると言わない方がいい。40年も探しているなんて言うと向こうは警戒するから」 その通り父であることを隠して、アフリカ人が集まる「怪しげなバー」を訪ねると、年配の男たちに囲まれ、「これは誰なんだ」と問い詰められる。「俺は本当のことを知りたい。これは君の父親だろ」 正直者の根はすぐに露呈する。 「(父の)写真を見て、凝視して、僕の顔を三度見して、『お前にそっくりみたいだな』って」「ウソついたんだけどすぐばれた。すぐにわかったと思うよ」 似ていることを指摘された武内の嬉しげな顔、そして、父がまだ生きているかもしれないと知った瞬間の潤んだ目をカメラはさりげなく捉えている。