〈自分にとって父親とは?〉記憶にない父を探しにイタリアへ~映画「パドレ・プロジェクト 父の影を追って」にみる人間の物語
記憶にない父を消す
武内が父に会ったのは、母に連れられイタリアに行った2歳のとき。それが最初で最後だった。もちろん記憶にはない。証券会社で働きながら武内を育てた母は定年後に認知症が悪化し、いまは名古屋市の施設に入っている。そんな母からは、父についての手がかりは得られない。それでも母が大事にとっていた父の手紙を頼りに、捜索を始め、父が一時期ミラノにいたことがわかる。 手紙の父は子の出産を知り「うれしくて震えが止まらなくなった」と書いており、手紙をつぶさに読んだイタリア人通訳のキキは「お父さん、(武内)剛さんのこと、ずっと考えていると思うよ」と言い切る。 武内は6歳の春、いじめを心配した母の計らいで名古屋市中心部にある名城小学校に入学する。 周囲の大人たちは「人を差別したりとかそういう感覚はなかった」と言うが、幼いころの武内について「大変だったと思う」と語る。「やっぱり日本人じゃないというイメージがあるんですよね。いまはそういうことはないけど。色が違うから」 武内自身はどう見ていたのか。「保育園ではみんな、肌の色とか意識せずに育ってきているわけじゃないですか。でも、6歳で小学校に入ったとき、他の子どもたちの反応で、僕の見た目が他の子と違うと初めて意識した」 ひどいいじめはなかったにしても、からかいや興味本位の視線を浴びた。 もし、そのとき父がいたらどうだったろう。 「お前をからかうのは誰だ! 明日、お父さんが校門で待っててやるから、そいつを教えろ!」とそんなことを息まかなくても、「そんなやつらは無視しろ、かわいそうな連中だ」といった食卓での一言が彼を救ったかもしれない。 あるいは筆者が知るガーナ出身の男性の父のように、「差別されていると思ったら、電車の中を見回してみろ。必ず一人や二人、お前のことを見守っている人がいる」と賢者らしき言葉をかけてくれていれば。 武内は思春期にさしかかったころ、自分がからかわれる、笑われる原因でもある父を消し始める。 <若い頃は自分のアフリカ的な部分から目を背けるようにして生きてきた。その理由は無数にあるが、まず日本で目にするアフリカの情報のどれも“発展途上国”、“貧しく未開発”というイメージが先行していたため、無意識のうちに「一緒にされたくない」という選民思想めいたものが心の中に芽生えていたのかもしれない。加えて、同調圧力がすさまじいここ日本で「君は日本人に見えない」「ガイジンみたい」と言われ続けたことでコンプレックスが芽生え、「こうなったら日本人よりも日本人になってやる!」と息巻いていた。実際に日の丸を縫いつけた黒の作務衣を着て名古屋の街を歩いたりもした。そうすることで、話したこともないアフリカ人の父の存在をどこかで遠ざけていた部分もあったと思う>(プレス向け監督ノートより)