JR南武線“ナゾの途中駅”「武蔵溝ノ口」には何がある?
運命を変えた「2本の街道と1本の用水路」
江戸時代、溝ノ口村と呼ばれていた武蔵溝ノ口駅周辺の一帯は、2本の街道が交差する町だった。ひとつは大山街道、もうひとつは府中街道である。 大山街道は、現在の国道246号のルーツだ。江戸から世田谷を抜けて厚木、そして大山へ。大山参詣のルートであり、東海道の脇往還としても賑わった。だいたい東急田園都市線と並行しているのも特徴だ。 もうひとつの府中街道は、古代武蔵国の国府があった府中と多摩川河口の港町だった川崎を連絡する街道で、鎌倉時代には鎌倉に通じる街道の一部でもあった。府中と川崎というなら、南武線そのものである。 この2本の街道が交差する地点が溝ノ口。ちょっとした宿場のような位置づけで、大山街道沿いを中心に市街地が形成されていたという。 そして、江戸時代の初めには二ヶ領用水が整備されている。住宅地の中を流れていた小さな川がそれだ。徳川家康が関東に入ってすぐに整備がはじまった用水路で、完成後は多摩川沿いの低地に過ぎなかった溝ノ口村を田園地帯に生まれ変わらせた。 2本の街道と1本の用水路。これが、溝ノ口の運命を作ったのである。
「工場と繁華街の町」として発展したが…
明治以降、川崎の海沿いからはじまって、多摩川沿いは次第に都市化が進んでゆく。それに拍車をかけたのが、鉄道だ。 溝ノ口には、1927年に南武鉄道(現在の南武線)と玉川電気鉄道(現在の東急田園都市線)が相次いで乗り入れる。現在の南武線では初めて“2路線が交わるターミナル”だった。大山街道と府中街道が交差するという、江戸時代以来の役割をそのまま鉄道も踏襲することになった形である。 そして、そこに二ヶ領用水の豊富な水が加われば、工場の立地としては抜群だ。昭和初期、溝の口には相次いでいくつもの工場が進出する。わかりやすいように現在の社名で主だったところを列挙すれば、東芝、NEC、ニコン、富士通、ミツトヨ、池貝。こうした工場が武蔵溝ノ口駅北口から東側にかけて、次々に現れた。 2路線が乗り入れる駅があって、たくさんの工場。そうなれば、駅の周りが賑やかになるのもとうぜんのなりゆきだ。 当時はまだ溝ノ口止まりだった玉電と、南武線。その駅舎があった北口周辺には、所狭しと商店が軒を連ね、繁華街を形成してゆく。工場で働く人たちをあてにした町だから、いくらか歓楽街の要素もあったのだろう。 その頃の溝ノ口は、工場とそれに紐付く繁華街の町として発展していった。1937年には川崎市に編入されているから、すでにそこそこの規模の町に成長していたのだろう。 戦後になってもその傾向は変わらず、そこに経済成長に伴う人口増加で住宅地としての一面も加わってくる。1966年には玉電をルーツに持つ東急田園都市線が延伸し、多摩田園都市の足がかりにもなっている。 そして、1980年以降、溝ノ口のシンボルだった工場群は姿を消してゆく。その跡地が、ポレポレ通りを抜けた先にあった巨大なマンションだったり、さらにその奥にあるかながわサイエンスパークだったり。駅前広場も持たない北口のごちゃごちゃした繁華街はしばらくそのまま残っていたが、1990年代末にはようやく再開発。商業ビルのノクティが生まれ、立派なペデストリアンデッキも整備された。 そうして工業地帯ではなく住宅地としての側面が強くなり、いまの武蔵溝ノ口が形作られたのである。まだまだ武蔵小杉にはタワマンもなく、工業地帯一辺倒だった時代の話である。