「ひさびさに来たよ、京平さん」筒美京平が眠る鎌倉で、松本隆が語ったこと
スランプの時期の京平さんに言ったこと
筒美さんと松本さんの仲が急速に深まったのは、太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」(75年)からだったと松本さんは言う。 「太田裕美はデビューのときから京平さんと一緒にプロジェクトを組んでいたんだ。デビュー曲『雨だれ』(74年)からシングルを3枚、アルバムを2枚作って。どれもそれなりにヒットはするけど、中ヒット止まり。なかなか大ヒットにつながらない。 京平さんと『このままだとダメになっちゃうから、なんとか火を点けたいね』と3枚目のアルバム(『心が風邪をひいた日』)を作っていたとき、ぼくは京平さんに提案したんだ。いつものように京平さんが作った曲に合わせて詞を書くのではなく、ぼくの詞に合わせて曲を作ってくれないか、って。つまり、詞を先に書きたいと言ったんだ。ぼくがはっぴいえんどでやっていたように。それでできたのが『木綿のハンカチーフ』だった。 当初はアルバムの中の1曲だったし、そのくらいの冒険をしてもいいと思った。曲を先に作ることを歌謡曲で一般化させたのが京平さんだったということもあったから、さあ、京平さんは、細野さんや、大滝(詠一)さんや、(鈴木)茂のように、ぼくの詞に曲をつけられるの? ってメジャーに対する挑戦のような気持ちもあったと思う」 そして、松本さんは、歌謡曲の定石を逸脱する長い詞を書き(「アメリカのフォークソングのように10番ぐらいまである長い詞を書きたかった」とは松本さんの弁)、それに驚いた筒美さんは、詞を短くするようにとディレクターに文句の電話をしようとするも深夜だったために繫がらず、締め切りも迫っていたのでしぶしぶ曲をつけはじめ、朝には「名曲ができた!」と大喜び──というのは有名なエピソード。 「それからは、ぼくと一緒に作るときは、『詞を先に』と言われることが多くなっていったんだ。すっかり宗旨替えしちゃったのは、70年代の終わり頃。その頃、京平さんは中原理恵のデビューアルバムを作っていたんだけど、どうにもこうにもスランプに陥ってしまい曲が書けなくなってしまった。 それまでは、書く曲書く曲、どれもベスト10入りをしてたけれど、その勢いに翳りが出てきて、『作曲家なんてもうやめたい』と弱音を吐くようになった。それで、当時、京平さんを担当していたディレクターの白川(隆三)さんに頼まれ、一緒に家へ行ったんだ。『そんなことを言わないで、続けてみようよ』って。 でも、京平さんは譲らない。『ヒット曲なんてもう書けない』と。それで、ぼくが『やめてどうするの? 』って聞くと、京平さんは『ジーンズ屋さんをやりたい。ジーンズのほうがいっぱい売れる』って(笑)。京平さんにとって、曲は『売れる』ことが大事。そしてそれを自分に課すから、どんどん重くなってしまい、背負っているのがつらくなってしまう。 だからぼくは、『もうちょっと羽目をはずそうよ』って言ったんだ。『1位なんか獲らなくていい。ヒットもしなくていい。好きな曲を好きなように作ったらいいと思うよ』って。それで『東京ららばい』(78年)の詞を書いて渡したんだ」