「ひさびさに来たよ、京平さん」筒美京平が眠る鎌倉で、松本隆が語ったこと
「いまだにアルフィーに会うと、あのときはごめんという気分になっちゃうんだ」
「バンドで元ドラマーだったヤツが作詞家になった、という経歴に引っかかったんじゃないかな。当時の歌謡界にそういう人はいなかった。それに、京平さんは当時、フォークや、後にニューミュージックと呼ばれる人たちの曲を作りたいと思ってたんだ。彼はいま何が流行っているのか、どういう音楽が若者たちに人気があるのか、そういったことにすごく敏感だったし、アンテナをものすごく張っていた。それでぼくに接近したんだと思う。そして京平さんは、『今度、アルフィーっていう新人バンドがデビューするから詞を書いてほしい』とぼくに言ったんだ」 アルフィーとは、そう、THE ALFEEのこと(注:デビュー時はALFIE)。デビュー曲「夏しぐれ」(74年)は、筒美&松本コンビによる最初期のシングルとなった。がしかし。 「全然売れなかった。だから、いまだにアルフィーに会うと、あのときはごめん、という気分になっちゃうんだ。50年も前のことなのに(笑)。でも、なぜ売れなかったんだろう。京平さんの曲も、ぼくの詞もよかったと思う。『いいものを残したい』というぼくの思いが、京平さんの『売れなくちゃダメ』を上回ってしまったのかもしれないな。 いい曲といえば、話は脱線するんだけど、アルフィーの曲を書いていた頃、リバティ・ベルズという東大生のグループにも詞を書いていたんだ。アルバム用に何曲か書いたんだけど、途中でプロジェクトが頓挫してしまった。メンバーたちが『やっぱり学校をちゃんと卒業したい』と、バンドを解散してしまったからだと記憶しているけれど、『幸せがほしい』(注:カップリング曲は「やさしい関係」。ともに作曲:樋口康雄)という曲だけはシングルで発売されたんだ。 実は、そのときのディレクターが酒井政利さんだった。酒井さんはとても義理堅い人だったから、その後、山口百恵のアルバム『花ざかり』(77年)でそれらの曲を使ってくれて、日の目を浴びることにはなったんだ(『陽のあたる坂道』『飛騨のつり橋』『あまりりす』の3曲)。 そして、リバティ・ベルズの宮田茂樹くんは、大学卒業後にレコード会社に就職、竹内まりやのディレクターになり、ぼくは『SEPTEMBER』(79年、作曲:林哲司)の詞を書くことになる。ついでに、リバティ・ベルズのために書き、百恵さんが歌った『陽のあたる坂道』(作曲:佐藤健)は、虎ノ門の霊南坂をイメージして書いたんだけど、霊南坂教会はぼくが少年時代に参加していた『ボーイスカウト東京4団』のホーム。 そこでは後に、百恵さんが三浦友和さんと結婚式を挙げることになる。不思議な縁だよね……って、京平さんの話をからだいぶズレちゃったよね」 はい。話をもとに戻しましょう。