ラストシーンが泣ける…映画『ぼくが生きてる、ふたつの世界』吉沢亮の繊細な演技に注目すべきワケ
「宿命」として生まれることの暴力と奇跡
子は親を選べない。生まれてくる場所も環境も時代も、そして肉体すらも選ぶことができない。それが命を宿すと書く「宿命」の定義である。宿命は原則的に生涯変えることのできないものとされている。 人間が人生で最初に受ける暴力は「この世に産み落とされること」だという人もいる。ドイツの哲学者ショーペンハウアーに代表される反出生主義者と呼ばれる人たちは唱えてきた。人生は苦しみの方が多く、最も合理的なのは子供を地球に生み出さないことだと。 「生まれて来なければ良かった」 自分の命に絶望の刃を向けた経験のある人はどのくらいいるだろう。 「生んでくれなんて頼んだ覚えはない」 その刃を母に向けた経験のある人はどのくらいいるだろう。 一方で、生む側からすれば、望んだからといって誰もが母親になれるわけではない。なりたくても母になれなかった女性もいれば、一方でなりたくないのに母になってしまった女性も存在する。また、なりたくてなったにも関わらず母になったことを後悔している女性だっている。 そういう現実を知っていくことで人は誰もが自分の命がどうやって繋がれたのかを考え始める。 親元を飛び出した大もまた自分の出生を知る。結婚を反対された母と父が駆け落ちしたこと。障碍児が生まれては困るという理由で出産は反対されていたこと。当時は優生保護法下――障碍者の出産に後ろ向きな時代だったことを。 そして知っていく。それでも自分を生みたいと願った母の祈りを。それでも自分を生んだ母の覚悟を。生まれてきたことはそれだけで奇跡なのだということを。どんな宿命を背負っていても、どんな母親でも、生んでくれたからこそ苦悩できる今があることを。 大はコミュニケーション不全に陥っていた母との関係を再生させていく。再び取り組み始める手話だけでなく、携帯電話やメールという新たなコミュニケーション手段もその一助になっていく。手話も発話もまだ拙かった幼き日に手紙のやりとりをしていた母と子の笑顔が重なっていく。 私たちは誰もが母親から生まれた。多くの母親が子供に「生まれて来て良かった」と思える人生を歩んで欲しいと願う。その母親に「産んでくれてありがとう」と心から言える人生を自らの手で紡ぐことができるか。 どんな母と子にもいつか必ず別れの日が訪れる。どちらかが先に逝くその日まで母と子のコミュニケーションは続いていく。 「生まれて来て良かった」 「産んでくれてありがとう」 生まれて来た誰もが母親に心からそう言える社会こそ私たちが目指すべき未来なのかもしれない。ラストシーンでは誰もが自分の母親に対する懺悔の涙を流さずにはいられないだろう。 【著者プロフィール:青葉薫】 横須賀市秋谷在住のライター。全国の農家を取材した書籍「畑のうた 種蒔く旅人」が松竹系で『種まく旅人』としてシリーズ映画化。別名義で放送作家・脚本家・ラジオパーソナリティーとしても活動。執筆分野はエンタメ全般の他、農業・水産業、ローカル、子育て、環境問題など。地元自治体で児童福祉審議委員、都市計画審議委員、環境審議委員なども歴任している。
青葉薫