本屋大賞「成瀬あかり」は現実のM–1でどこまで通用するか M-1創設者が驚愕する「成瀬本」の深いM–1描写
でも、成瀬は何年後かにまたM–1に出場しそうな予感がする。そしてその時は1回戦敗退ではなく、かなりのところまで行きそうな気がする。それは何年後か? 作者にはぜひそれを書いていただきたいと願っています。 ■「M–1」が普通に小説に描かれるという驚き 2001年、あの頃漫才は世間ではすっかり忘れられたオワコンだった。テレビでは漫才番組は1本もなく、吉本の劇場でも漫才をやるな、コントをやれと言われていた時代だ。漫才はそこまで落ち込んでいた。
そのときに43歳の吉本社員だったぼくは、漫才を立て直すための「漫才プロジェクト」のリーダーにいきなり任命された。社内でたったひとりのプロジェクトだった。M–1を立ち上げたときも「そんな若手の漫才コンテストを誰が見るのだ」と言われた。付いてくれるスポンサーは見つからず、放送してくれるテレビ局はひとつもなかった。漫才もM–1も、そんなどん底の状況だった。 ところがこの小説は、誰もがM–1の存在を知っている前提で書かれている。ついにM–1が普通に小説に描かれるくらい一般的になったのだ。今さら何を言っているのかと思われるかもしれないが、漫才冬の時代にM–1を始めたときには、まさかこんなふうになるとは夢にも思わなかった。とてもうれしくて感慨深い。そして成瀬にM–1に挑戦させてくれた作者にお礼を言いたい。
実はぼくと成瀬にはM–1以外にも縁がありすぎて驚いている。 ぼくは滋賀の出身である。そして、成瀬が通う膳所(ぜぜ)高校のライバルである彦根東高校の出身で、成瀬と同じ京大を出ている。成瀬が夏祭りで踊った江州(ごうしゅう)音頭を聴くと体が自然に踊り出す(これはけっこうほんと)。 他府県から電車あるいは車で滋賀に帰ってきて車窓から琵琶湖が見えてきたときには、なんとも言えないうれしさと安堵を感じる滋賀県人だ。夜、紫色に光る西武大津店の姿を初めて見たときには、どういうわけか誇らしく感じたものだ。滋賀出身の堤康次郎(つつみ・やすじろう)が創業した西武グループが初めて滋賀につくった西武百貨店だからか。