【動画】最初はプレッシャーだった ── 「ドラえもんのうた」山野さと子の生き方
アニメソング(アニソン)や童謡、カバーソングなど、これまで歌った数は約1100曲以上という歌手の山野さと子(51)。歌手生活の始まりは、高校時代にアニソン主題歌コンテストのグランプリを獲ったことだったが、最初はプロでやるつもりは全くなかったという。だが、後に「こんなこといいな」のフレーズで知られる、アニメ「ドラえもん」の主題歌を歌うまでに。今でも全国各地のコンサート会場、そして「保育士セミナー」講師として歌い続ける彼女の生き方を聞いてみた。
きっかけはアニソンコンテスト優勝、「生徒諸君」主題歌でデビュー
大阪府東大阪市出身。歌手になるきっかけは、高校1年生の時、アニメソング主題歌コンテストでグランプリをもらったことだった。「会場は東京の中野サンプラザ。8000人の応募の中から11人が集まって、緊張しながらも楽しく歌いました。けど、その時は歌手になろうとは思ってませんでした」 1980年にドラマ「生徒諸君!」(テレビ朝日)の主題歌「ハーイ!生徒諸君!」でデビューを果たしたが、基本的には学業優先。ブラスバンド部に所属し、でクラリネットやマリンバとかを担当し、青春を楽しんでいたという。歌手活動は、夏休みなどを利用してレコーディングを行ってはいたが、当時、イベントでこのデビュー曲を歌ったのは1度だけだったという。 そして「将来は英語を生かせる仕事に就けたら」という思いから短大の英語科へ進学。そこでも歌手活動といえば、夏休みなど年に1~2回東京へ行ってレコーディングを行ったり、遊園地などで歌うくらいだった。
プロの歌手「自分には無理」と思っていた学生時代
短大2年のころ、就職活動の準備にかかった時、所属する事務所の担当者から「あなたプロとしてやらないの?」と声をかけられた。「私は『レコーディングだけ』と思っていたから、自分にはそんなの無理と思って、英語を生かせる仕事を探してました」と当時を振り返る。 だが、その後1か月間にわたり、米国サンディエゴへホームステイに行った時のこと。広々とした大地ですごす中、事務所の人の「プロとしてやらないの?」という言葉が頭から離れなかった。「プロなんて自分には無理」と思ってはいたものの「人生1度きりやし、やってみよう。東京行ってアカンかったら、また戻ってこよう」とプロになることを決意した。 父親は当初「東京は危ないからアカン」と反対していたが、母親は「頑張ってきて」と応援。次第に父親も「3年やってアカンかったら帰って来い」とエールを送ってくれた。「父がそう言ってくれたから頑張れたと思う。実は父は今でも同じことを言ってくれるんです。だから私も3年ごとに振り返ってますね」 短大卒業と同時に1年間、声優の養成所へ通った。「標準語を話せるように」とナレーションや発声、演技やダンスなどを学び、土・日はコンサートの仕事をこなした。そして、1984年にはアニメ「とんがり帽子のメモル」、1986年には「メイプルタウン物語」(いずれもABC朝日放送)の主題歌を。同年に「ゆかいなコンサート」(NHK教育テレビ)の司会と歌のおねえさんを担当し、5年間放送された。