評伝 東京電力元会長・勝俣恒久氏 「カミソリ」と呼ばれた論客の無念
逃げない人だった。平成23年3月の東日本大震災で福島第1原発事故を起こした後、体調を崩して入院した清水正孝社長(当時)に代わり、会長として陣頭指揮に当たった。 自宅には毎夜、多くの記者が待機していたが、質問が途切れるまで応じ、自分から話を打ち切ることはなかった。その姿が忘れられない。 ■トラブルや事故対応に追われた経営者 最後にお会いしたのは24年6月下旬。東京電力は実質国有化され、経営陣も刷新されることが決まっていた。自身も株主総会をもって会長を退任することになっていたが、その2日前に取材の機会を得た。 原発事故で、多くの人々は自宅に住めなくなるなど安寧な暮らしを引き裂かれた。だが、取材では福島第1原発を襲った津波について「あれだけの津波が来ることは想定していなかった」と改めて想定外だったことを強調した。一方で「もう少し防ぎようがあった」とも述べ、対策の不備を認め、自らの責任についても言及した。 頭の回転の良さから、社内では〝カミソリ〟と呼ばれた論客として知られたが、一気に年を取ったように感じられた。「小さくなったなあ」。1時間ほどの取材の後、そう感じたことが印象に残る。 東大卒業後、昭和38年に東電に入社。企画部門を長く歩み、経済産業省など霞が関の官庁にも人脈を築いた。早くから社長候補と目されたが、経営者としてはトラブルや事故の対応に追われる日々だった。 ■「東電、再生しなくては」 そもそも平成14年の社長就任も、原発の点検データ改竄で南直哉社長(当時)が辞任したためだった。就任後は電力の安定供給に不安を抱えながらも、すべての原発を自主的に停止するなど荒療治も織り交ぜながら社内改革を進めたが、19年には過去のデータ改竄が次々に発覚。自宅への夜回り取材では「疲れた」と漏らし、弱気をみせることもあった。 「首都圏の電力供給のためにも、東電は再生しなくてはいけない」。24年の取材の際、最後にこう述べ、後輩に再建を託した。だが、廃炉や賠償などいつ終わるか分からない「福島への責任」を背負い続ける中で、東電の業績は低迷し再生は遠い。 自らも再生に向けた道筋を示すことができなかった。カミソリとまで言われた論客にとって、そのことが一番の無念だったのではないか。(論説委員 高橋俊一)