「僕を地獄に落とすんですか」田尾安志はなぜ“最下位確定”だった楽天の初代監督を引き受けたのか?〈球団創設20年〉
「楽天は紛れもなく、12球団で最も乏しい戦力になる」
2000年代初頭は1試合1億円と言われた巨人戦の放映権料を目当てにパリーグのオーナーもリーグの統合に積極的であり、そのパイを分け合う上では8球団までに減少させることが適正だと主張する経営者もいた。 しかし、球団が合併すれば、その時点で70人ほどの支配下選手がリリースされてしまう。チームが減少するごとに選手たちが仕事場を失うことになるのだ。プロ野球界のパイの縮小によって、やがて野球自体が衰退していくことが予想された。 選手不在の中、1リーグ制に向けて着々と進行する動きに危機感を持った古田敦也選手会長が、ここでリーダーシップを発揮する。 選手会としてNPB(日本プロ野球機構)に説明を求めたのだ。そして「近鉄とオリックスの合併の1年間の凍結、その間に身売り先を探して新規球団を参入させる」との要求を掲げた。 選手の総意をもとにした切実な声であったが、あいかわらず経営者サイドの反応は鈍かった。古田は業を煮やすかたちで「オーナー側と会って話がしたい」と発信。これを伝え聞いた巨人の渡邉恒雄オーナーが「たかが選手が」と発言し、物議を醸しだした。 結果的にこの言葉は選手たちの気持ちに火をつけ、一気に結束が固まった。その後、NPB側と選手会との団体交渉は決裂し、古田は2004年9月18日、19日の2日間にストライキを敢行する。 週末の公式戦が二試合消滅したが、世論もまた選手会を圧倒的に支持。これに押されるかたちで1リーグの動きは封じられていく。そしてついに経営者側は12球団の存続と新規参入チームの参加審査を積極的に行うことを認めたのである。大きな譲歩だった。 最終的に近鉄の合併は承認されたが、新規加盟申請にライブドアと楽天の二つが手をあげ、楽天の参入が認められた。 もしも当初のシナリオ通り球団が減少していたら、紛れもなく今のパリーグ、ひいては現在の日本球界の隆盛はないであろう。選手会労組が動いたことで成し遂げた最も大きな仕事のひとつである。 しかし、ここから先に大きな問題が残った。誰がいったい新規参入の楽天の監督をするのか。このとき、評論家をしていた田尾はこんなふうに思っていた。 「メジャーリーグはチーム数を増やす膨張傾向にあるけど、その場合、新しく出来た球団への最低戦力を保障するエクスパンション・ドラフトをやっている。日本の場合は増えるわけではないけど、楽天は実質、新球団だから、同じようにすべての既存球団が協力すべきじゃないか。 アメリカみたいに各チームが20人くらいの選手をプロテクトし、あとは、自由に指名させるやり方が良い」 ところが、「戦力強化も合併のメリット」と考えるオリックスの主張が通り、新球団の選手の選択については、エクスパンションではなく、分配ドラフトが採用された。 まず近鉄と合併したオリックス側に近鉄の選手を含む25人の選手のプロテクトが認められ、楽天はそこから外れた選手の中から20人を選定し、以降はオリックス、楽天の順番で指名していくというものであった。 既存球団からの供出選手の枠は無く、(近鉄最後の選手会長となった磯部公一はオリックスのプロテクトに入ることを拒否したが)制度的にも戦力均等とはならないドラフトであった。 「楽天は紛れもなく、12球団で最も乏しい戦力になる」 誰もがそう考える中で、田尾は新球団の初代GMマーティ・キーナートから、チーム編成について意見が欲しいと要請を受け、会食の場に出かけて行った。 中日、西武、阪神と渡り歩いた現役選手時代から、誰の顔色も窺わず、歯に衣着せぬ正論を言い続けてきた田尾は、評論家の立場からも一切の忖度なく、新しい球団の在り方、ふさわしい監督像について語った。