【マキ上田連載#6】マッハ文朱の引退で次のスターが必要に 私とジャッキー佐藤に白羽の矢
【マキ上田 ビューティ・ペアかけめぐる3年間の軌跡(6)】全日本女子プロレスに入門し、1975年3月19日にデビューしたんですが、それから数か月後に練習でヒザを脱臼したんです。 【写真】山口百恵さんの〝ライバル〟だったマッハ文朱 (松永)俊国さんによる柔道練習で乱取りをしている最中、自分が投げられないようにしようと思って、踏ん張った時に強い力で投げ飛ばされて。男性の力だったから上半身だけ引っ張られて、下半身は自分の方で残ってたからヒザをケガしました。それ以外プロレス人生で大きなケガはしてないんですが、それでもほとんど毎日試合があって。多い時は年間300試合もありましたから、とにかく必死でリングに上がってました。 なので入門してからまったく家族と連絡をとらなかったんです。寂しいと思うことはあったけど、鳥取で小さいころから、我慢強く育てられたからかな? デビューが決まった時も電話しなかったし、デビュー戦を家族に見に来てもらおうという発想もありませんでした。まあ、当時は今みたいに携帯電話もなかったので、会社の言う通りに黙々と練習し続けていましたね。 ただ「箱入り娘」として育てられた意識はなかなか抜けなくて。何をやるにしても行動が遅かったり、ご飯を食べている時も一人だけずっと食べていたみたいで、先輩からは「ノロちゃん」ってあだ名をつけられてました(笑い)。でも先輩の言うことだから「嫌です」とも言えないじゃん? 長いことそんな名前で呼ばれてましたね。 私がデビューした日にWWWA世界シングル王者になったマッハ(文朱)とは、入門した時期が半年前くらいしか変わらないんですよ。年齢は一緒だったからちょこちょこ話してましたね。彼女は元々プロレスラーじゃなくて、歌手を目指していた子なので「スター誕生!」(日本テレビ系)に出たんです。最終で山口百恵ちゃんと競って落ちてしまったけど、身長が高かったから「プロレスやるんだったら、歌も出すよ」ってうちの社長が拾ってきた。 それでレコードを出して試合後にリングで歌っていたと思います。音楽番組にもたくさん出ていたんだけど、急に彼女がプロレスを引退することになって。そうなるとコマーシャルとかも出てたから、会社に何千万とか違約金みたいなのが発生するじゃない? たぶんそれが会社に借金になったんじゃないかな。だからマッハの引退式とかやらなかったんじゃないかな…。 やった記憶がないですね。そこで次の新しいスターを生み出さないといけないってなって。マッハが1人で歌を出して失敗してるから、今度は2人組にするかってことで私とジャッキーが組んでビューティ・ペアとして活動していくことになったみたいです。
マキ上田