小川公代さん「ゴシックと身体」インタビュー 家父長制に抗った女性たちの“戦術”
ヴァンパイアとして描かれた「新しい女」
――ラドクリフといえば、〈説明のつく超自然〉を描いたことでも知られていますね。幽霊かと思ったら実は人間、というパターンの物語には、ホラー好きとして正直拍子抜けさせられることもあります。 幽霊が本物かどうかはそれほど重要じゃないんですよ。ラドクリフはエッセイの中で、シェイクスピアの『ハムレット』を取り上げながら、幽霊の存在の有無はどうでもいい、大切なのはどれだけ恐怖を掻き立てられ、想像力を刺激されたかなんだということを主張しています。『イタリアの惨劇』でもスパラトロという悪漢が、過去に犯した罪の意識から、死者の幻影に怯えている。ラドクリフの世界では、幽霊は想像力によってもたらされるもの。これもまた意識ではコントロールできない、身体の働きですよね。 ――シェリダン・レ・ファニュの『吸血鬼カーミラ』を題材に、ヴァンパイア(吸血鬼)をフェミニズム視点で読み解いた章も印象的でした。 19世紀から20世紀にかけて、イギリスには封建的な因習を打破して、社会で地位を獲得しようとする「新しい女」が登場します。ヴァンパイアは当時生きづらさを感じていた女性たちを後押しするような存在である一方、男性側の抱いていた恐怖心の象徴でもありました。女性を家の中に閉じ込めておきたい男性たちにとって、カーミラのような自由な存在はさぞ不気味だったでしょう。壁を自由にすり抜けちゃうんですから(笑)。 ――『吸血鬼カーミラ』は2019年に『カーミラ 魔性の客人』として映画化されています。小川さんはこの映画も「新しいヴァンパイア」として評価されていますね。 エミリー・ハリス監督の『カーミラ』は、わたしが求めているゴシックを抽出してくれたような映画でした。原作では主人公のローラと吸血鬼少女のカーミラが友情で結ばれますが、映画はレズビアンの関係として表象し、二人の連帯の物語へと改変しています。しかもカーミラが吸血鬼として滅ぼされる原作とは違って、映画では家父長制を内面化した家庭教師のミス・フォンテーヌによって、カーミラは心臓を潰されてしまう。まさに現代のLGBTQへのバックラッシュそのもので、意義のある改変だったと思います。 ――ゴシックとは家父長制や因習に抗う女性たちが選び取った“戦術”だった、というのが本書に通底する見方です。 明確に言語化できたのはずっと後になってからですが、ゴシックはマイノリティが社会で声を上げるための巧妙な戦術でした。自分がゴシックに惹かれたのも、その部分が大きかったと思います。大きな声で主張するとバックラッシュに遭って潰されてしまうので、あくまでこっそりと巧妙に、家父長制や因習への違和感を表明する。ゴシックの作家たちは、後年それが読み解かれるのを期待していたんじゃないでしょうか。アン・ラドクリフのお墓に行って、「ちゃんと伝わりましたよ」と声をかけたいですね(笑)。 ――本書を読んで、ゴシックロマンスに関心を抱く人も増えるかと思います。2020年代の今日、日本でゴシックを読むことにどんな意味があるとお考えですか。 この令和の時代も、結構生きづらいと思うんですよね。家父長制的な価値観がまた強まってきて、規範から少しでも逸脱すると叩かれてしまう。これはメアリ・シェリーが『フランケンシュタイン』の第3版で夢の言い訳をしなければならなかった、ヴィクトリア朝時代のイギリスとよく似ている。当時恐怖を描いた物語として流行したゴシックは、名もなき人々の連帯の物語でもあり、そこからケアの倫理を読み解くこともできます。人間という小さな存在が、尊厳を持って生きるには、どこかで逸脱しなければならない。その背中を押してくれるのがゴシックです。あなたがおかしいと感じていることは、ゴシック小説にすでに書かれていますよと言いたいですね。
朝日新聞社(好書好日)