袴田さん「再審無罪」確定、検事総長の談話は「名誉毀損」にあたらないのか?
●検事総長の談話に「免責の余地」はあるか
一般に、名誉毀損言論でも、(1)事実の公共性、(2)目的の公益性、(3)摘示事実の真実性または真実相当性があれば、違法性や責任が阻却される(この理屈は「真実性・真実相当性の法理」と言われています)、というのが判例・通説です。 この法理は、市民の表現の自由を保障するために、名誉毀損言論について一定の免責の余地を認めたものです。 しかし、今回の畝本談話は、検察庁という権力機構のトップの談話であり、畝本氏はこの談話の公表を公権力機関の業務としておこなっているのですから、そのような公権力機関の行為には表現の自由を保障すべき余地はありません。 このような公権力による公表行為の場合には、上記の真実性・真実相当性の法理を用いず、公表内容の真実性・公表の必要性・相当性等の個別的な事情を総合的に衡量して免責の可否を決めるのが近時の主流の考え方です。 では畝本談話は、総合的衡量の末、免責が認められるようなものか。 (1)まず、公表内容の真実性の点を見てみましょう。 畝本談話は、"袴田さんが殺人犯だ"と言っているわけですから、それが真実だというのであれば、"袴田さんが殺人犯だ"ということの真実性を畝本氏側が裁判で立証しなければなりません。 しかし、再審公判では無罪判決が出たうえ、"袴田さんは犯人だ"と言っている張本人であるところの検察庁自身が控訴をしなかったというのですから、これは、検察庁自らが"袴田さんは犯人だ"ということの真実性を立証できないと言っているようなものです。 つまり、公表内容に真実性が認められる余地はないといえるでしょう。 (2)では公表の必要性の点はどうでしょうか。 畝本談話は、文字通り「談話」であり、法律上、公表が必要とされているものではありません。 検察庁のトップとして、袴田さん無罪判決に対して"控訴しないことにした"と言うことは必要だったでしょう。しかし、必要だったのはそこまでです。 "袴田さんが犯人だ"などということは、"控訴しないことにした"という用件を伝えるうえでまったく必要がないことであり、よって、公表の必要性は認められません。 (3)では公表することに相当性があったといえるでしょうか。 袴田さんは、50年以上も無実を訴え続けてきて、このたび、ようやく無罪となったわけです。そのような状況において、検察庁が、自分たちは控訴をしないでおきながら(私は決して『控訴をしろ』と言っているわけではありません。念のため)、それでもなお"袴田さんは犯人だ"と言うことは、アンフェアの極みです。 検察庁が控訴をしなかったということはつまり、控訴をしても判決をひっくり返す見込みが立たなかったということにほかならず、そうであるならば、自分たちの見込み違いを反省しておとなしく引き下がるべきでしょう。そうであるにもかかわらず、公訴権を独占している検察機構のトップが「談話」と称して、"袴田さんは犯人だ"と言うことは、不見識極まりないと言わざるを得ず、公表することに相当性が認められる余地もありません。