下士官ですら死刑執行 米軍の怒りはどこに 石垣島事件厳罰の背景は~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#48
正規の処刑方法 ”銃殺”は無罪
前々回紹介した、西部軍の冬至堅太郎大尉が書いた巣鴨委員会の戦犯事件調査票には、同じ処刑実行者でも中部軍事件や東海軍事件と比べて西部軍事件は重い判決が出されているという訴えがあった。 右の如く類似事件に比し判決加重なり 中部軍事件 処刑実行者 無罪 東海軍事件 処刑実行者 10年(執行停止にて出所) 西部軍事件 処刑実行者 終身 林博史著「BC級戦犯裁判」(岩波新書2005年)によると、「中部軍事件は、銃殺、斬首、毒殺といういくつかの方法で処刑した事件だが、27人が起訴されたものの死刑はなく、正規の処刑方法である銃殺に関わった准尉以下の10人は無罪になった」とある。東海軍事件の処刑方法は斬首だが、「命令に従って処刑を行った下士官以下は形式的には有罪であるが、服役が免除されたので、実質的には無罪と同等の扱い」だった。 〈写真:冬至堅太郎の戦犯事件調査票(国立公文書館所蔵)〉
空手や弓矢 残忍な方法で厳罰
では、冬至大尉が「判決が加重」と訴える西部軍事件ではどうか。西部軍の事件は大きく、九州帝国大学で捕虜を生体実験した「九大生体解剖事件」と、捕虜を斬首するなどした「油山事件」の二つに分けられる。いずれも戦争末期、1945年5月以降に行われている。冬至大尉は油山事件の方で、6月20日に司令部敷地内で飛行士を斬首しているが、この事件では更に福岡市郊外の油山で8月10日に8人、8月15日に17人を殺害している。 「判決が厳しかった理由として、空手や弓矢で殺そうとしてうまくいかずに斬首するなど、殺害方法が残忍であったこと、一七人の処刑は八月十五日の玉音放送の後に、これまでの捕虜処刑を隠蔽するためにおこなわれたこと、などの事情があったのではないかと思われる」(「BC級戦犯裁判」林博史著) 西部軍事件では、死刑の判決は受けたものの全員減刑されて、死刑が執行された者はいなかった。冬至大尉も死刑から終身刑に減刑された。1956年には仮出所したが、正式には1958年5月31日に出所した「巣鴨プリズン最後の戦犯18名」のうちの一人だった。 〈写真:戦犯たちが収容されたスガモプリズン〉