核保有国インドの国父像は、戦争被爆地の原爆資料館近くにふさわしい? ガンジー像巡る広島と長崎の対応
長崎市の名物でもある、路面電車で原爆資料館を訪ねる多くの観光客がこのロータリーの脇を通って資料館に入る。いくら非暴力の象徴的な人物とは言え、核保有国の国父像が、観光客を出迎えるかのようになってしまうのではないだろうか。 中国の覇権主義的な行動に連携対処するため、インドを重視している日本の外交方針は賢い選択だと思う。 しかし、外交という国策である国家の論理を、無辜の市民が戦争という国策の犠牲になった広島と長崎という2つの平和都市が受け入れているのが理解できない。 海外の人から「なぜ核なき世界を誓う原爆資料館の近くに、核保有国インドの国父像だけを設置してあるのか」と問われたら、長崎市はうまく説明できるだろうか? ▽出島の向こうにインドが見える もったいないなとも思う。 インドからの寄贈を活用できれば、人口14億4千万人超と世界一で、経済成長も見込まれるインド人観光客を呼び込める気がするからだ。
当初インド側と合意していた眼鏡橋に近い、別の観光スポット「出島」かその近くへの設置を、インドと交渉できないだろうか? 唯一の西洋への窓口だった出島にあった、オランダ商館の影に隠れてあまり有名ではないが、江戸時代の日本とインドの庶民は深くつながっていたからだ。 出島には、現在のモディ・インド首相の出身地である西部グジャラートなど各地の庶民が家内工業でつくっていたインド更紗など綿織物が大量に輸入されていた。 エキゾチックな模様を色鮮やかに染めたインド綿織物は、出島から日本各地に運ばれて大人気となり、京更紗や堺更紗など各地で模倣された。 日本からの主力輸出品は銅だった。出島から輸出された銅のほとんどはインドに転売され、フライパンや建材などに加工された。 当時のインド人の食事を調理していたフライパンは、日本産の銅でつくられたものだ。 出島を通じて、江戸時代の日本人がつながっていたのは、仲介貿易をしていた