「仁義なき戦い」脚本家・笠原和夫の幻の傑作「十一人の賊軍」が描く新たな戊辰戦争…なぜ弱き者たちは闘い抜くことができたのか
画面から感じる人間臭さ
映画は、女房の長井恵里を凌辱した武士を山田孝之が刺し殺すシーンから始まる。長井はろう者で、言葉を持たない者のつらさ、もどかしさを全身で表現する。女房と出会った時に酒をやめ、彼女の分身である観音を背中に彫った最下層の駕籠屋、山田孝之と長井恵里の「愛していても、相手を幸せにできない」関係、そのままならなさにこの映画のテーマが集約されている。山田が国家や大義のためではなく、たったひとりの女性のために命を賭けるところがいい。 山田は武士を殺した廉で磔(はりつけ)になる寸前、仲野太賀に命を救われる。同様に助命された11人が牢屋の中で白飯を食べる場面が素晴らしい。彼らは赤貧の中で育ち、白飯など食べたことなどなく、「母(かか)や父(とと)に食わせてえ」と泣きながら握り飯にむしゃぶりつく。11人は決死隊として砦に送られ、ここから映画は泥まみれ、埃まみれ、血まみれの戦闘シーンへと突入する。 この映画に善悪はない。あるのは、どんな汚い手を使ってでも生き延びるか、殺されるかだ。「集団抗争時代劇」ならではの、ワンシーンの中に大勢の人間がひしめく場面が繰り広げられ、映画は実録やくざ映画のように差別を受ける人々にも目を向け、画面から人間臭さがふんぷんと立ち上る。 花火師の息子で知的障害児役の佐久間宝が火薬の使い方に習熟し、仲間の窮地を救うなど、はみ出し者が自らの得意技を駆使し、錦の御旗を掲げた数千人の東軍にひと泡吹かせるところが痛快きわまりない。
「負け犬みてぇに野垂れ死んでたまるかよっ」
11人の賊軍の中では「火付け女」役の鞘師里保が格段に素晴らしい。鞘師は佐久間が銃弾に倒れたとき、こう叫ぶ。 「ここにいる連中はみんな一緒さ。やっちゃいけねえことをやっちまって、けどそうでもしねえと生きていけねえ、どうにもならねえ連中さ……そちらもわっちもまだ諦めねえ、諦めてたまるかっ、まだこうして生きてんだ、このまま負け犬みてえに野垂れ死んでたまるかよっ」。 鞘師のこの魂の叫びに胸を衝かれるや、死んだとばかり思っていた傍らの佐久間がむっくりと起き上がる。 泣かせたあとに笑わせる演出の転調がうまい。また、息絶える決死隊長役の野村周平を許婚の木竜麻生が見届ける場面で、白石和彌は木竜の背姿を引き画で撮り、けっして野村の姿を写さない。抑制が効いた演出がかえって野村を失った木竜の惻々たる思いを伝え、観客の胸を打つ。ラスト、新発田藩主と11人の賊軍が守った、秋祭りで賑わう平和な新発田の城下を写し、映画は幕を閉じる。 紀伊宗之と白石和彌以下のスタッフ、キャストは、「まつろわぬ者たち」を描き続けた笠原和夫の衣鉢を継ぎ、東映集団抗争時代劇の魂を現在に甦らせ、知られざるプロットの映画化は暴挙ではなく快挙となった。『十一人の賊軍』は新発田藩のみならず、世界中で使い捨てられる貧しい無告の民への鎮魂歌だ。そして、『十一人の賊軍』は日本人がこれからいかに生き延びるかを指し示す、この秋、必見の力作である。
伊藤 彰彦(映画史家)