「仁義なき戦い」脚本家・笠原和夫の幻の傑作「十一人の賊軍」が描く新たな戊辰戦争…なぜ弱き者たちは闘い抜くことができたのか
「裏切者」と呼ばれた藩
『十一人の賊軍』も戊辰戦争で近隣の藩から「裏切者」と呼ばれた「新発田(しばた)藩」(現・新潟県新発田市)の人々の汚名を雪(そそ)ぐために書かれた。笠原の父親は新発田の裏切りによって戦火にまみれた長岡の出身。笠原自身も幼少期に長岡で暮らしたにも関わらず、卑怯者の汚名を着た新発田の方に関心が向くところが笠原らしい。 役所広司が河井継之助を演じた『峠 最後のサムライ』(2022年 小泉堯史監督)など、「奥羽越列藩同盟」に参加し同盟軍(東軍)として長州藩、薩摩藩を中心とした維新政府軍(西軍)に抗戦し敗れ去った長岡藩の悲劇は判官贔屓(はんがんびいき)の日本人の紅涙を絞った。一方、日本海から新潟に攻め入ろうとした薩長軍に藩内にある新潟湊を明け渡し、上陸を許すことによって長岡藩の敗北を決定的にした新発田藩は「新発田にだけは嫁に行くな」と言われるほど近隣諸藩から蔑まれた。 しかし、笠原は「新発田藩譜」を読みこみ、新発田藩の家老が新発田の町を戦場にしないために、長岡藩や薩長と複雑な駆け引きをしながら民衆を守ったことを突きとめる。そこで、家老が城下の囚人を11人集め、長岡藩が新発田を通過し東北へ敗走するまでの三日間、上陸した薩長を新発田の手前で食い止めるための捨て石にする物語を考えた。11人のいずれもが、自分の大切なものを踏みにじられたために罪を犯した時代の犠牲者であるところに、戦中戦後の日本の混乱の中で苦汁をなめた笠原和夫の思いが宿る。 笠原和夫は一年かけて脚本を書き上げるが、脚本を読んだ東映京都撮影所長の岡田茂(後の社長)が「最後に全員が討ち死にし、負ける話なんかやってどうする! 何考えとるんや!」と笠原を怒鳴りつけ、笠原は脚本を破り捨てる。岡田が却下した背景には、『十三人の刺客』(63年 工藤栄一監督)など「集団抗争時代劇」の興行的な失敗があった。 東映は金のかかる時代劇を見限り、予算が少なくて済むやくざ映画路線へと舵を切り、笠原も『日本俠客伝』(64年 マキノ雅弘監督)を野上龍雄、村尾昭と共作したのを嚆矢に、以降、やくざ映画の脚本を量産する。 しかし、無名の若者たちが死を賭して戦う集団抗争時代劇こそ、73年から始まる『仁義なき戦い』の魁だった。