力道山39歳死去 1万人以上参列の「国葬級」葬儀当日に追悼大会開催 63年12月20日
【昭和~平成スター列伝】日本プロレスの祖・力道山は今年で生誕100周年を迎えた。1963年12月15日には、暴漢に刺された傷が原因で39歳の若さでこの世を去っている。同年12月20日には東京・池上本門寺で力道山の葬儀が行われ、政財界、芸能界、スポーツ界から多くの著名人が弔問に訪れた。 【写真】力道山の追悼試合は葬儀当日に行われた 参列者は本門寺でも過去最高の1万人以上。警官隊も130人が配置され当時ではまさに「国葬級」の規模だった。弔電は1300通を超え、米国からは大物歌手フランク・シナトラからも弔辞が送られた。 実は葬儀当日の午後6時からは渋谷のリキ・スポーツパレスで力道山の追悼大会が行われている。あまり知られていない事実だが、大物レスラーの葬儀当日に追悼大会が行われたのは後にも先にも力道山しかいない。メインは後継者と目されたアジアタッグのパートナーだった豊登が、力道山最後の試合(12月7日浜松の6人タッグ)の相手だった“狂犬”バディ・オースチンと一騎打ちを行っている。この日の本紙は同大会を1面、2面、葬儀の模様を3面で報じている。会場正面にはベルト姿の力道山の遺影が飾られていた。 『追悼試合に出場した豊登は“第二の力道山”を目指し、すさまじい闘志と怪力を見せ、力道山の仇敵狂犬に立ち向かった。リングサイドには葬儀から直行してきた喪服姿の関係者も見える。「1週間寝ていない」(豊登)というものの、気力で闘志を燃やす豊登は思い切りバック投げを決め、さらにヒジ打ち。さらにベアハッグ、ストレートからフックの連打。狂犬もエキサイトして、エルボーから腕をすくいキーロック。だが怪力豊登はそのままぐいっと腕を引き抜くや、逆にレッグロックの猛攻。すくい投げからロープを使って狂犬を首絞め。キック、パンチ、髪の毛を引っ張って荒れ狂い、反対側のロープを突っ張るようにして狂犬を絞め上げた。結局これが反則となり、沖レフェリーが5カウント。大の字に伸びた狂犬の右手が上げられた。「反則も辞せず」という豊登の凄まじい気迫がヒシヒシと伝わってきた。豊登は第二の力道山になれるだろう』(抜粋) しかし豊登は第二の力道山にはなれず、短期政権に終わった。65年に日本プロレスの2代目社長に就任。エースとして、64年にジン・キニスキー、65年にフレッド・ブラッシーを破りワールドリーグ戦連覇を果たしたが、同年末にずさんな経営を理由に退社を強いられた。やがてジャイアント馬場とアントニオ猪木の「BI砲」が中心となり、プロレス人気を再興させる。日本のプロレスは力道山からBI砲にバトンタッチされ、新たな「黄金時代」を迎えることになる。 (敬称略)
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